狩野直喜の曹植文学論

狩野直喜『魏晋学術考』(筑摩書房、1968年)に、
曹植の文学について論述しているところがあります(第十六から十八)。

吉川幸次郎が受講したというそれらの論を、
タイムスリップした潜りの学生になったつもりで読んでみました。

その十八「曹植(三)―七哀詩と雑詩」で、狩野先生はこう述べられます。

一体、詩を解するには、二方面よりせざるべからず。一は文字に顕はれたる意味よりするもの、二は文字の裏面に含むもの、即ち文字は或事柄を述ぶれども、そは唯比興の為めに言ふた丈で、本意は別にありとし、その方よりするものなり。

つまり、詩においては、
文字どおり表現されている事柄の裏側に、
その文字どおりの事柄を喩えに、別の内容を表現している場合があって、
詩を解釈するには、そうした両面からの読みが必要だ、と。

その上で、曹植の「七哀詩」や「雑詩」は、
男女の愛情に重ねて、曹丕との君臣関係を詠ずるものだと論じておられます。

これは、私がかつて曹植「種葛篇」「浮萍篇」について述べたことと、
(その一端を挙げるならば、こちらこちら
基本的にほとんど同じ解釈方法を取っていると言えます。

では、どこが異なっているのでしょうか。

狩野先生は、前述のような表現手法は、夙に『詩経』や『楚辞』にあるとされています。

それに対して私論の方は、曹植作品が踏まえた『詩経』それ自体から、
「種葛篇」「浮萍篇」がダブルミーニングの詩であることを明らかにしたものです。
それは、『詩経』に常套的な表現手法である「比」や「興」とは別物です。

先人は、中国学に対する圧倒的な学識に基づいて、
「心得の学」(吉川幸次郎による跋にいう)をもって論じられました。

そうした蓄積の薄弱な私は、
清朝や民国の先人たちに多くのことを教わりながら、
あわせて情報処理的ツールを駆使して調査する方法を取りました。

こうした方法によって、研究の精度は上げられます。
けれども、本当は私も「心得の学」を目指したいと思っています。
同書の吉川幸次郎による跋にいう、
「前人の言に完全に共感しないかぎり、にわかにそれに従わない」姿勢です。

2025年9月29日