広く流布する辞句(承前)
昨日の続きです。
『晏子春秋』内篇問下にいう「一心可以事百君、三心不可以事一君」は、
同一の句が、同書の外篇上にも見えています。
このいずれもが、梁丘拠(斉の景公の臣下)の問いに応えた晏子の科白の中にあります。
ところが、『晏子春秋』外篇下に記された故事では、
孔子が斉の景公に謁見した際、晏子に会わない理由を問われ、
晏子事三君而得順焉、是有三心。所以不見也。
晏子は三人の君主に仕えて従順でいられた。これは三つの心があるということだ。
だから(そんな心根に一貫性のない者には)会わないのだ。
と孔子が答えたところ、
これを景公から伝え聞いた晏子がこう言うのです。
不然、嬰為三心。三君為一心。故三君皆欲其国之安、是以嬰得順也。
そうではない、私(晏嬰)に三つの心があるというのは。
三君はひとつの心であった。
もとより三君はみなその国の安定を望んでいて、だから私は従順にお仕えできたのだ。
これと同じ内容の故事は、同書外篇下にもう一条見えていて、
そこでは、晏子の科白がこのようになっています。
嬰聞之、以一心事三君者、所以順焉。以三心事一君者、不順焉。……
私はこう聞いております。
ひとつの心で三人の君主に仕えることは、従順だとされる所以である。
三つの心でひとりの君主に仕えるのは、従順ではない、……と。
孔子と晏子が登場する同じ故事は『孔叢子』詰墨にも見えますが、
そこではそれに続けて晏子と梁丘拠とやりとりが記され、
そこに晏子の次の科白が出てきます。
一心可以事百君、百心不可以事一君、故三君之心非一也、而嬰之心非三也。
ひとつの心で百人の君主に仕えることはできるが、
百の心でひとりの君主に仕えることはできない。
もともと三人の君主の心はひとつではなく、私の心は三つではないのだ。
そして、この晏子の言葉を聞いた孔子が、晏子に感服するという筋書きになっています。
これはまるで、『晏子春秋』外篇下の記事に、同内篇等の記事を合体させたような外観です。
以上の記事を縦覧すると、こうまとめることができるでしょうか。
『晏子春秋』の外篇下に記された故事は、
「一」と「百」の対比ではなく、「一」と「三」の対比を為しています。
同書の内篇及び外篇上では、「一」と「百」、「一」と「三」の対比が混在しています。
一方『孔叢子』は、「一」と「百」の対を諺のように持ち出して、
それを、『晏子春秋』外篇下に見える「一」と「三」の対に対応させています。
それぞれの書物・篇の関係性については無知のままですが、
いずれ霧が晴れる日も来るかと思い、まずは覚書きを記しておきます。
「一心可以事百君、三心不可以事一君」を、
『詩経(魯詩)』曹風「鳲鳩」の伝として記す諸本があることは昨日記しましたが、
そちらの系統と、晏子をめぐる上述の故事との関係については待考です。
(すでに先行研究があるのかもしれませんが、未見です。)
2025年10月5日