訳注の難しさ

本日、「当事君行」(05-34)の訳注稿を公開しました。
この作品に感じた訳注の難しさを記しておきます。

まず、典故を踏まえた表現である場合、その出典の示し方です。

先日来考えてきた「百心可事一君」という辞句の出典は、
結局、『説苑』談叢にいう「一心可以事百君、百心不可以事一君」を挙げました。

というのは、続く句「巧詐寧拙誠」に近似する句が、
同じ『説苑』談叢の前掲文のすぐ上に「巧偽不如拙誠」と見えているからです。

『説苑』貴徳にも、一字違いで「巧詐不如拙誠」とあります。
ですが、曹植が詩作に当たってわざわざこの貴徳にある句を拾ったというよりは、
もともと談叢の句が貴徳のそれと同じであった、
あるいは(現行の)談叢の句を見た曹植が、それに手を加えたのかもしれない、
と考えた方がよいように思いました。

語釈に示す出典は、できることならば作者の目睹したものを挙げたい。
彼の手と目がたどった道筋が見えるものならば、と思います。

もう一点、この作品で難しいと感じたのは、通釈です。

当時広く流布していた言葉を寄せ集めた感のある本詩は、
そのことわざめいた言葉と言葉との間に奇妙な余白があるため、
直訳するとおかしな日本語になるところが少なくありませんでした。

また、日本語と漢語とでは本質的に構造が違いますから、
漢語で表現されている内容を過不足なく日本語で言い表そうとすると、
逐語訳ではどうしても日本語として不自然なことになります。

漢語のどの言葉の意味を、日本語のどの部分が受けているか、
それを説明することはできるつもりではありますが、
直訳というには程遠いものとなります。

訳注は、たいへん地味な作業ですが、面白いです。

2025年10月6日