経験と表現

過日も言及したことですが、
曹植「盤石篇」の終盤に、次のような句が見えています。

南極蒼梧野  南は蒼梧の野の果てまでも心を飛ばし、
游眄窮九江  視線を遠く左右に流して九江を見極める。
中夜指参辰  夜中には参星や商星を指さして、
欲師当定従  行く先を見定める指標としよう。

「参」は、西南方向に位置する宿(星座)、
「辰」は、東方に位置する商星すなわち心宿をいい、
ここでは、方角を知るための指標となる二つの星座を意味しています。

ところが、同じこの二つの星座が、
曹植の別の作品では離別の象徴として用いられています。

すなわち、「種葛篇」(05-27)に、

昔為同池魚  昔は同じ池に棲む魚だったのに、
今為商与参  今は商星と参星のように遠く隔たっている。

「浮萍篇」(05-28)に、

在昔蒙恩恵  その昔、恩愛の恵みを賜り、
和楽如瑟琴  琴瑟の音が響きあうように、和やかに睦み合っていた。
何意今摧頽  ところが、思いがけなくも私は今ぼろぼろに落ちぶれて、
曠若商与参  あなた様とはまるで商星と参星のように遠く隔てられている。

とあるのがそれです。

商星(辰)と参星とを、このような意味で用いる例は曹植以前に既にあって、
たとえば、蘇武「詩四首」其一(『文選』巻29)にこうあります。

昔為鴛与鴦  昔は一対のおしどりのように仲睦まじかったのに、
今為参与辰  今は参星と商星とのように離れ離れだ。

李陵・蘇武の名に仮託された五言詩、いわゆる蘇李詩は、
建安詩人たちに非常によく親しまれており、曹植もそのひとりです。

ところが、曹植は「盤石篇」において、
「参」「辰」を取り上げながら、離別という意味とは無関係に詠じています。

同じ事物を見ても、それにどのようなイメージを付与するか、
そこには、作者の経験というものが否応なく関与してくるように感じます。

言葉を紡ぎ、磨き上げていく文学作品は、
その言葉を知識として知っているだけでは創り上げられない。
作者の経験が、言葉に彫りを入れ、磨きをかけて成るのだと思います。
だから、独自性を持つ表現は、作者の生を探ってこそ感じ取れると考えます。

2025年11月9日