研究手法における彼我の差

先週末、中国の汕頭大学で開催された楽府学会に出席し、
「曹植《种葛篇》《浮萍篇》于文学史上的地位」と題して研究発表を行いました。

当日の発表原稿スライドは、このとおりです。

内容は、かつてこちらの雑記で考察を重ねてきたものですが、
それを、中国の研究者を前にして説明しながら見えてきたものがあります。

それはまず、研究手法における彼我の差異、懸隔です。
中国の研究者たちの本領は、大量の資料を飲み込んでは咀嚼していく力と、
そこから得たものを結び付け構築していく、強い論理性志向であるように感じます。
一方こちらは、実に微細な気づきから思考を垂直に掘り進めていく。

これは、いつも感じることではありますが、
どちらが手法としてより優れているかといったことではなくて、
あちらとこちらとは基本スタンスが本質的に異なるとしか言いようがありません。
こちらがあちらの真似をしても、たぶん刃こぼれするのがオチでしょう。
自分はこのままこの方法で掘り進めていくしかありません。
するとそのうち、あちらとこちらとが相俟って、何か新しい見地が開けるかもしれません。

こうした点において、中国の研究者の多くは実に鷹揚です。
自らとは異なる手法を取るものの長所を進んで認めようとされるのです。
自分もかくありたいものだといつも感じ入ることです。

他方、今回は自分の説明不足を感じるところがありました。
この点についてはまた後日記します。

2025年11月18日