応劭と曹魏との接点
曹植「駆車篇」を読んでいます。
王者の封禅について詠ずるその詩の中にこうあります。
歴代無不遵 歴代の王者はみな封禅の規範に従い、
礼記有品程 儀礼について記した書物に、それは具体的に記されている。
古直の『曹子建詩箋』巻4には、
『史記』封禅書にその具体的な儀礼は未詳である旨が記されていることを示し、
曹植のいう「礼記に品程有り」とは、応劭『漢官』に引く馬第伯「封禅儀記」を指すか、
と推定されています。
『後漢書』巻48・応劭伝には、
応劭が袁紹の軍謀校尉を拝命した建安二年(197)当時のこととして、
時始遷都於許、旧章堙没、書記罕存。
劭慨然歎息、乃綴集所聞、著『漢官礼儀故事』。
凡朝廷制度、百官典式、多劭所立。
時に始めて許に遷都し、旧章は堙没し、書記は存すること罕(まれ)なり。
劭は慨然として歎息し、乃ち聞く所を綴集して、『漢官礼儀故事』を著す。
凡そ朝廷の制度、百官の典式、多くは劭の立つる所なり。
と記されています。
建安元年(196)、献帝を許都に迎えたのは曹操で、
曹操は献帝を擁して天下に号令を発する立場を得たのですから、
当時五歳だった曹植も、いずれ応劭の著作に触れる機会があったと想像されます。
その「駆車篇」にいう「礼記有品程」が、
直接的に応劭の『漢官礼儀故事』等を指すかは未詳ですが、
曹魏政権の周辺に、応劭のこうした著作物があったとは言えそうです。
2025年12月2日