魏における封禅の儀
昨日言及したように、
黄節・趙幼文・曹海東の各氏は、
曹植「駆車篇」の背景にある史実として、
魏の明帝期に持ち上がった封禅の儀のことを推定しています。
これは実際どのような出来事だったのでしょうか。
『魏志』巻25・高堂隆伝に、次のような記事が見えています。
初、太和中、中護軍蒋済上疏曰、宜遵古封禅。
詔曰、聞済斯言、使吾汗出流足。
事寝歴歳、後遂議修之、使隆撰其礼儀。
帝聞隆没、歎息曰、天不欲成吾事、高堂生舎吾亡也。
初め、太和中、中護軍の蒋済 上疏して曰く「宜しく古の封禅に遵ふべし」と。
詔して曰く「済の斯の言を聞けば、吾をして汗出でて足に流れしむ」と。
事寝(や)みて歳を歴、後に遂に議して之を修めしめ、隆をして其の礼儀を撰せしむ。
帝は隆の没するを聞くや、
歎息して曰く「天は吾が事を成すを欲せず、高堂生は吾を舎(す)てて亡くなるなり」と。
蒋済が明帝に、封禅の儀を執り行うよう上疏したところ、
明帝は、これを一旦は退けたものの、後に高堂隆に封禅の書を著述させたのでした。
しかしながら、曹魏王朝の封禅は、結局実現することはありませんでした。
このことは、『宋書』巻16・礼志三に、より詳細に記されています。
そこに引用された明帝の詔は次のとおりです。
聞済斯言、使吾汗出流足。自開闢以来、封禅者七十餘君爾。故太史公曰、「雖有受命之君、而功有不洽、是以中間曠遠者、千有餘年、近数百載。其儀闕不可得記。」吾何徳之修、敢庶茲乎。済豈謂世無管仲、以吾有桓公登泰山之志乎。吾不敢欺天也。済之所言、華則華矣、非助我者也。公卿侍中・尚書・常侍省之而已。勿復有所議、亦不須答詔也。
蒋済のこの言を聞き、私は冷や汗でいっぱいだ。天地開闢以来、封禅を執り行った君主は七十餘名だけだ。だから司馬遷はこう言っている。「天より受命した君主でも、功績が行き渡らなかったりして、そのため遠く隔たっている者は千年餘り、近くの者は数百年、その儀は欠けて記すべくもない。」わたしは何の徳を修めたわけでもないのに、どうしてこれ(封禅)を願ったりしようか。蒋済はどうして、世の中に(封禅を望んだ斉の桓公を諫めた)管仲はおらず、わたしに桓公と同じ志があると思ったのだろうか。わたしはとても天を欺くことなどできない。蒋済の言ったことは、たしかに華やかではあるのだが、わたしを助けるものではない。公卿侍中・尚書・常侍はこれを閲読するのみとせよ。再び議論してはならぬし、答詔を求めてもならぬ。
この中には、曹植「駆車篇」にも見えていた要素が認められます。
たとえば封禅を行った君主の数、君主の徳と封禅との関係、封禅の儀を記した書物のことなど。
曹植が、この明帝の詔を耳にして、
それに対する応答として本詩を作った可能性は十分に考えられるように思います。
2025年12月10日