曹植「駆車篇」と明帝の詔

今日も前日からの続きです。

曹植「駆車篇」における不可解さのひとつとして、
その中盤に出てくる「歴代無不遵、礼記有品程」があります。

この句が指し示す具体的な内容については、
先日こちら(2025.12.02)で推測を述べたところですが、
では曹植はなぜ、ここでこのようなことを言い出したのでしょうか。

その理由が、昨日示した明帝の詔との照合によって見えてきたように思います。
すなわち、明帝自らが『史記』封禅書を引用して詔に記した
「其儀闕不可得記(其の儀は闕けて記すを得可からず)」に対する、
曹植なりの返答と捉えることができるのではないでしょうか。

曹植詩のその後に続く句にいう「封者七十帝」も、
明帝の詔にいう「封禅者七十餘君爾(封禅する者は七十餘君のみ)」に同じです。
これは事実(概数)を記す部分なので、一致するのは当然だとはいえ、
そのような事柄を持ち出しているところに目が留まります。

また、曹植詩にいう「唯徳享利貞」は、
明帝の詔に見える謙遜の辞「吾何徳之修、敢庶茲乎
(吾は何の徳の修むるありてか、敢へて茲を庶(へが)はんや)」に対して、
これに応じ、励ましているようにも捉え得ると考えます。

さらに、曹植詩の中盤に見える「東北望呉野、西眺観日精」について。
なぜ「東北」「西」なのか、不思議でならなかったのですが、*
もし本詩が洛陽の明帝を意識しながら作られたものだとするならば、
泰山は、その「東北」に位置し、「西」は、泰山から見て日没の方角となります。
つまり、「明帝から見て東北の位置にある泰山に登って呉の平原を見渡し、
泰山から西のかた太陽を遠く眺めやる」と解釈できるのではないか。
これはあくまでも想像の域を出ない推論ではありますが、
本詩の中に、もし明帝の視座を置いてみるならば、
少なくとも前掲のごとき奇妙な方角にも、一定の妥当性が生まれます。

(以上のことは、まだ確証がないので訳注稿には反映させていません。)

2025年12月11日

*『藝文類聚』巻42に引くところは「車北望呉野」に作りますが、これも意味が通りません。