曹植「駆車篇」の不可解さ
曹植の「駆車篇」について、不可解さの落穂ひろいです。
たとえば曹海東氏が説くように、
本詩を、明帝の封禅に従う曹植が作成したものだとすると、*
一句目の「駑馬」が、皇帝一行の描写にはそぐわないように感じられます。
それに、先に言及した『魏志』高堂隆伝や『宋書』礼志三を見る限り、
明帝は封禅を行うには至っていないようです。
曹植は、明帝の太和3年(229)、38歳のとき、
雍丘王から東阿王に転じました。東阿は、泰山の東方に位置します。
本詩に詠じられた泰山の光景は、曹植自身が実際に目にしたものなのかもしれません。
ただ、泰山という特別な山に自由に赴くことができたのか、わかりません。
ところで泰山は、五岳の頂点に君臨する山であり、
天下を統一した王者が、天にその功の成ったことを報告する場所であり、
他方、死者の魂が帰っていくとされている場所でもあります。
そうした泰山の持つ様々な要素が、本詩には分散的に現れています。
また、黄帝について、王者としてよりも、その登仙の方に目が向けられています。
本詩のこの捉えどころのなさはどこから来るのでしょうか。
曹魏は天下を統べたのではないから、結局、封禅は行われなかった、
そのことと関わっているのかもしれません。
泰山の頂から「呉の野を望む」というのも、
見果てぬ夢に終わりそうな天下統一を思えばこそなのかもしれません。
2025年12月12日
*曹海東『新訳曹子建集』(三民書局、2003年)p.260~261。