「艶歌何嘗行」の作者

西晋王朝で演奏された「大曲」(『宋書』巻21・楽志三)の中に、
「何嘗」という語に始まる、「艶歌何嘗行」という楽府題の歌辞があります。

『宋書』楽志三では、これを「古詞」(詠み人知らず)としていますが、
『楽府詩集』巻39では、これを魏の文帝曹丕の作としています。

『楽府詩集』は、『古今楽録』に引く王僧虔「大明三年宴楽技録」に、

「艶歌何嘗行」、歌文帝「何嘗」・古「白鵠」二篇。

とあるのに基づいて、この楽府詩を曹丕の作だとしたのでしょう。

“古「白鵠」”とは、「白鵠」という語に始まる古楽府「艶歌何嘗行」で、
「何嘗・艶歌何嘗行」と同じく、「大曲」の中に含まれています。

「何嘗・艶歌何嘗行」は、
文帝曹丕の作か、詠み人知らずか、どちらなのでしょうか。

南朝劉宋の王僧虔による「技録」は、
西晋末の永嘉(307―312)の乱により離散した宮廷音楽が、
劉裕(宋の武帝)によって北方から奪還、復元されて成った記録です。

楽団の離散から大明三年(459)まで約150年の開きがありますので、
王僧虔の「技録」は、西晋の宮廷音楽を完全に再現するものではありません。
とはいえ、最も近い時代の記録として尊重すべきでしょう。

他方、『宋書』楽志は、王僧虔「技録」よりは成立が降りますが、
梁の沈約が、当時において目睹し得る文献をよく吟味して編んだ歴史書で、
魏晋の宮廷音楽の実態を最もよく伝える第一級資料です。*

このように、資料が伝わった沿革だけを見てくると、
『宋書』楽志の示すとおり「古詞」が妥当と判断されるのですが、
そう言い切るのに少しく躊躇を覚えるのは、
この楽府詩が、いかにも曹丕を彷彿とさせる要素を持っているからです。
(続きます。)

2025年12月13日

*このことについては、柳川順子『漢代五言詩歌史の研究』(創文社、2013年)第五章第一節・第二節を参照されたい。