「艶歌何嘗行」の作者(承前)
昨日述べたとおり、
晋楽所奏「何嘗・艶歌何嘗行」には、
それを詠み人知らずとする説(『宋書』楽志三)と、
魏の文帝曹丕の作とする説(王僧虔「大明三年宴楽技録」)とがあります。
この曹丕の作とする説を目にしたとき、私はさもありなんと納得しました。
そのように納得した理由を問われれば、
そのひとつとして、この「艶歌何嘗行」が持つ表現的特徴があります。
この楽府詩は、既にある作品を寄せ集めたような部分がひときわ目立ちますが、
それは、曹丕の別の作品にも認められる特徴なのです。
このことを「何嘗・艶歌何嘗行」について端的に示せば、
まず、「但当飲醇酒、炙肥牛(但だ当に醇酒を飲み、肥牛を炙るべし)」は、
晋楽所奏「西門行」(『宋書』楽志三)にいう「飲醇酒、炙肥牛」とほぼ同じです。*1
また、「長兄為二千石、中兄被貂裘、小弟雖無官爵……
(長兄は二千石為り、中兄は貂裘を被り、小弟は官爵無しと雖も……」と、
兄弟三人の羽振りの良さを畳みかけるように詠じている部分は、
清調曲「長安有狭斜行」(『楽府詩集』巻35)にいう
「大子二千石、中子孝廉郎、小弟雖無官爵、衣冠仕洛陽
(大子は二千石、中子は孝廉郎、小弟は官爵無しと雖も、衣冠 洛陽に仕ふ)」と、
発想がたいそう似通っています。
更に、「上慚滄浪之天、下顧黃口小兒
(上は滄浪の天に慚ぢ、下は黃口の小兒を顧みる)」は、
晋楽所奏「東門行」に見えている「上用倉浪天故、下為黄口小児
(上は倉浪の天を用ての故に、下は黄口の小児の為に)」とよく似ています。*2
これに通ずる作風が、曹丕の「燕歌行」(『文選』巻27)にも認められます。
その特に顕著な部分を示せば、次のとおりです。
「不覚涙下霑衣裳(覚えず 涙下りて衣裳を霑す)」は、
「古詩十九首」其十九(『文選』巻29)にいう「涙下沾裳衣」にほぼ同じ、
「明月皎皎照我牀(明月 皎皎として我が牀を照らす)」は、
同じく「古詩十九首」其十九にいう
「明月何皎皎、照我羅床幃(明月 何ぞ皎皎たる、我が羅の床幃を照らす)」に酷似し、
「牽牛織女遥相望(牽牛 織女 遥かに相望む)」は、
「牽牛星」と「河漢女」との隔絶を詠じた「古詩十九首」其十と、
「古詩十九首」其三の「両宮遥相望(両宮 遥かに相望む)」とを合せたものです。
これらは、いわゆる典故表現とは異なって、
基づいた漢代の古詩を、ほとんどそのまま持ってきて綴り合せています。
「何嘗・艶歌何嘗行」を目にしたとき、想起したのは曹丕のこの作品でした。
けれども、楽府詩そのもの、特に宮廷音楽に組み入れられた歌辞には、
前述のようなパッチワーク的手法がよく用いられています。*3
そうすると、やはりこれは詠み人知らずの歌辞と見るのが妥当でしょうか。
わからなくなってきました。
2025年12月14日
*1「西門行」本辞(『楽府詩集』巻37)は「醸美酒、炙肥牛」に作る。
*2「東門行」本辞(『楽府詩集』巻37)は「上用倉浪天故、下当用此黄口児」に作る。
*3 柳川順子『漢代五言詩歌史の研究』(創文社、2013年)p.345―346を参照されたい。