「何嘗・艶歌何嘗行」の成り立ち
このところ、行ったり来たりしながら考察してきた「何嘗・艶歌何嘗行」、
本日、やっとひととおりの通釈を終えました。
こちらをご覧ください。
改めてこれを通覧し、気づいたことがあります。
それは、前半の「艶」の部分と後半の「趨曲」とで作風が異なっていることです。
前半の「艶」は、古楽府に常套的なフレーズの綴り合せですが、
後半の「趨」に入ると、急転直下、内容が固有の具体性を帯びてきます。
ところで、これと同じく「艶」と「趨」とから成り立つ「大曲」に、
詠み人知らずの「白鵠・艶歌何嘗行」があります。
これと多くの辞句を共有している古楽府に、
『玉台新詠』巻1所収「古楽府詩六首」其六の「双白鵠」があります。
そこで、晋楽所奏「大曲」の「白鵠・艶歌何嘗行」(『宋書』楽志三)と、
『玉台新詠』所収の「双白鵠」とを照らし合わせてみたところ、
晋楽所奏「白鵠・艶歌何嘗行」で「趨曲」と括られている後半の辞句が、
『玉台新詠』所収の「双白鵠」には見当たりません。
両者間で重ならないこの部分は、
「大曲」の編者によって追加されたと見るのが妥当でしょう。
そして、その追加部分の大半は、
『玉台新詠』巻1「古詩八首」其七に由来するものです。*
さて、「何嘗・艶歌何嘗行」は、
「白鵠・艶歌何嘗行」と同様の成り立ちをしているのでした。
すると、「何嘗・艶歌何嘗行」もまた、
その「趨」の部分は、前半とは別系統の作品群に由来するのかもしれません。
それが曹丕の作品であった可能性は十分にあるだろうと思います。
2025年12月18日
*柳川順子『漢代五言詩歌史の研究』(創文社、2013年)p.345―346を参照されたい。