「吾」と「卿」

一昨日、「何嘗・艶歌何嘗行」を夫婦の物語として訳し直してみました。
前半の「艶」は夫を主人公として一人称で、
後半の「趨」は妻を主人公として一人称で語る設定としています。

ところが、訳していく中で、困った問題に遭遇しました。
それは、後半の次の句に登場する呼称です。

吾中道与卿共別離  吾は中道に卿と共に別離す

ここに見える「吾」と「卿」とは誰を指すのでしょうか。

昨日示した別訳では、これを妻から夫への呼びかけと見ています。
けれども、そのような設定で読むと無理が生じるのです。

「卿」は通常、立場が上の者から下の者に対して呼びかける二人称です。
これを逆転させる場合もありますが、それは例外的なことです。
たとえば『世説新語』惑溺篇に次のようにあります。

王安豊婦、常卿安豊。安豊曰、婦人卿婿、於礼為不敬、後勿復爾。
婦曰、親卿愛卿、是以卿卿。我不卿卿、誰当卿卿。遂恒聴之。
 王戎の妻はいつも王戎を卿(お前さん)と呼んでいた。
 王戎は言った。「妻が夫を卿と呼ぶのは礼儀にもとる。今後再びそう呼んではならぬ。」
 妻は言った。「卿に親しみ卿を愛しているから、卿を卿と呼ぶんだ。
 私が卿を卿と呼ばずに、誰がいったい卿を卿と呼ぶのか。」
 かくして常にそう呼ぶことを聞き入れた。

『漢語大字典』第1冊(p.318)は、この『世説新語』に続けて、
「為焦仲卿妻作」詩(『玉台新詠』巻1)に見える「卿」の例を挙げています。
これは、先に述べた通常の場合と例外的な場合とのどちらでしょうか。

「為焦仲卿妻作」に当たってみたところ、
「卿」を、妻から夫への呼称として用いている例はひとつもなく、
ほとんどの場合は、夫が妻をこの二人称で呼んでいます。
(夫婦間での呼称でない場合も、立場の上下が逆転する例はありません。)

そのうち、次の3例は「吾」と「卿」とが一緒に登場します。

卿但暫還家。吾今且報府。
 君はしばらく実家に帰っていなさい。私はこれから役所に報告にいくから。

誓不相隔卿。且暫還家去。吾今且赴府。不久当還帰。
 絶対に君を遠ざけたりしないから、しばらくは家に帰っていなさい。
 私はこれから役所にいくが、遠からず必ず帰ってくるから。

卿当日勝貴。吾独向黄泉。
 君はきっと日増しに高貴な身分となるのだろう。私はひとり黄泉の国に向かうよ。
 (元妻が太守に嫁入りすることとなったことを聞いた元夫の科白)

このように見てくると、
前掲の「吾中道与卿共別離」を妻の科白と見ることは困難です。

このことを踏まえた上で、
この楽府詩全体を、夫婦の物語として読み解くことはできるか、
もう少し考え直してみたいと思います。

2025年12月24日