作品から史実へ
作品から史実が明らかとなることがあります。
曹植詩の訳注稿を見直していて、
とても小さなことですが、目に留まったところを記しておきます。
「贈白馬王彪」詩の冒頭にこうあります。
謁帝承明廬 承明門の側にある宿舎で皇帝陛下に謁見し、
逝将帰旧疆 さあこれからもと居た封土に帰るのだ。
ここにいう「旧疆」は、鄄城を指すと見られます。
『三国志(魏志)』巻19・陳思王植伝には、
黄初二年(221)に、臨淄侯から安郷侯への貶爵、次いで鄄城侯への改封が、
同三年(222)4月(文帝紀による)に、鄄城王に立てられたことが記されています。
これによると、すでに足掛け三年を過ごしている鄄城を、
「旧」と称することに何ら無理はありません。
ところが、前掲の記述のすぐ後に続けて、
「四年、徙されて雍丘王に封ぜらる」「その年、京都に朝す」とあります。
この記述だと、雍丘王に封ぜられたのが、
黄初四年(223)のいつなのか、また、上洛との前後関係が明確ではありません。
記述の順番は、事が起こった順番に従うとする見方を取るならば、
そして、この歴史書の記述のみに依拠して事の推移を推し測るのならば、
雍丘王に封ぜられ、その後に上洛したと見ることも、あるいは可能かもしれません。
しかしながら、「贈白馬王彪」詩を読めばこの可能性は消えます。
最近移ったばかりの雍丘に帰国することを、「帰旧疆」とは言わないでしょう。
『文選』巻24所収の本詩について、
李善は「時に植は雍丘に封ぜらると雖も、仍ほ鄄城に居る」と注していますが、
これは、歴史書の記述が、本詩に詠われたことと食い違うと見た李善が、
苦肉の策で注した解釈だったのだろうと想像します。
なお、ここに記したことと関連する過去の雑記として、
こちらもご参照いただければ幸いです。
2026年1月27日