回り道の思考
昨日は、少しばかり意味不明のことを書きました。
「文」は、やはり広い意味での飾りであることは間違いないと思います。
ただ、古代中世においては、言葉は多く音声を根幹とするものだったはずであり、
それで、「文」は多分に音楽的要素を持つ、などとわかったふうなことを書きました。
恥ずかしい限りです。
とはいえ、思えば言葉は、書かれ読まれる時代となってからも、
それが口から発せられ、気を震わせて伝わるものだった名残はあるように思います。
理屈でのみ組み立てられた論説文などは、私にはなかなか腹落ちしません。
そもそも、昨日なぜこのようなことを書いたかと言えば、
詩歌と、作者が口にしていたであろう日常的な言葉とは別次元のものであって、
こんな詩歌を作る人だからその為人はこうだったのだろうとか、
こんな詩歌は、社会のこのような現実を反映しているに違いないとか、
そのように、詩作品と作者や社会とを直結させることはできないと心したかったのです。
先日来、詩を通じて史実や作者の為人が明らかとなる等々と述べてきたので、
それには但し書きが必要だと思ったのです。
このように思考が抽象的な方向へ向かうのは、
曹植詩の訳注稿の見直し作業が思いのほか難航しているからでもありますが、
(こなすべき作業の前に立ちすくむとき、そんな隙間ができます。)
上述のことが自分にとっては考えないではいられないテーマであることも確かです。
2026年1月31日