語釈の難しさ(再び)
曹植は「上責躬応詔表」をかなりの速度で書き上げたのではないか。
このような推定を、かつて、また昨日も重ねて述べました。
この作品には、古典をきっちりと踏まえた典故表現よりも、
その趣旨を大づかみして、日常語に近い表現に組み替えた部分が目立つからです。
そんな作品だからこそ、語釈がし難いと感じます。
踏まえた古典語が、本文の中に明瞭に組み込まれていれば問題ありません。
その原典を示し、これを踏まえていると記せばよいので。
ただ、「上責躬応詔表」のようにそれが明瞭でない場合、
作者は何を見て、あるいは何を想起してこのような表現に至ったのか、
あるいは、特に何も念頭にはなくて、当時のこなれた言い回しを使っているのか、
それを判断するのが難しく、それをどう示すかにまた迷います。
典故表現の典拠と、先行作品に見える用例とは、当然区別して書きますが、
加えて、作者の脳裏にあったものを推し測って示せたらどんなにいいかと思うのです。
(語釈の難しさについてはこれまでにも何度も書いていますが、再び。)
これは、口語による文芸作品の難解さと似ているのかもしれません。
(当時の人々にとっては娯楽、それを読み解く現代人にとっては難解極まりない)
それだけ、曹植の言葉は当時の空気の中で躍動していたということでしょう。
実力不足を嘆くことばかりですが、
うまくいかなくて当たり前、この難航には意味があるのだと考え直します。
2026年2月27日