曹魏の人材登用

建安年間の曹植にとって、
曹魏政権下に集まった人々の待遇は大きな関心事だったようです。
このことについては、たとえばこちらでも述べました。

その具体例としてふと思い出したのが、
袁譚のもとから曹操傘下に移った王脩という人物の逸話です。

王脩は、袁譚が破れた後、その清貧と蔵書の多さが曹操を感服させた知識人で、
すぐに招聘されて司空掾・司金中郎将に任命されました。*1
(『三国志(魏志)』巻11・王脩伝)

けれども、司金中郎将に在職して七年、その職に飽き足らない王脩は、
当該職務に関する上奏文に付して、その不満を婉曲に述べます。
すると、曹操からすぐに書簡が届けられ、彼はまもなく魏郡太守に取り立てられました。
その書簡の中に、当時の推挙に関して、次のようなことが記されています。

自是以来、在朝之士、毎得一顕選、常挙君為首、
及聞袁軍師衆賢之議、以為不宜越君。
 是(王脩の登用)より以来、在朝の士、一顕選を得る毎に、常に君を挙げて首と為すも、
 袁軍師が衆賢の議を聞くに及びて、以て宜しく君を越ゆるべからずと為す。

これによると、ある者が抜擢されると、
その者が、あわせて別の者を推挙する仕組みとなっていたことが知られます。
そして、そうした推挙も、様々な人間関係に照らして実現しないことも多かったようです。
(以上、前掲『三国志』王脩伝の裴松之注に引く『魏略』による)*2

王脩の逸話から見えてくることとして、
まず、曹魏のもとには実に多くの人士が集まっていたため、
中には曹操の目が届かなくなってしまう人物も少なくなかったということがあります。
そして、彼らは相互に人材を推挙しあう関係にあったらしいことも知られます。

もっとも、これだけでは当時の情況がすべてわかったとは言えません。
また、この問題は、歴史学方面ではすでに明らかにされていることなのかもしれません。

ただ、以前にも取り上げた「贈徐幹」詩の背景が少し見えてきたような気がして、
ここに覚書きとして記しておきます。

2026年3月16日

*1 このことは、「曹操楽府詩私論」(『狩野直禎先生傘寿記念三国志論集』汲古書院、2008年)pp.161―182にて言及した。この論考は、柳川順子『漢代五言詩歌史の研究』(創文社、2013年)のpp.384―413に、第六章「建安文壇の歴史的位置」第一節「曹操の楽府詩を通して見る漢末士人社会の一側面」として収載している。
*2 『魏略』の資料的価値については、拙論「『魏略』の撰者、魚豢の思想」(『狩野直禎先生米寿記念三国志論集』汲古書院、2016年)pp.223―242を参照されたい。