「塵」と「泥」

以前(2024.04.04)、検討したことの続きです。

「七哀詩」で詠じられた「清路塵」と「濁水泥」は、
「九愁賦」では「濁路之飛塵」と「清水之沈泥」とに変容していました。

「七哀詩」は、古詩「西北有高楼」「明月何皎皎」を特に顕著に踏まえています。
「九愁賦」については、丁晏「陳思王年譜」の序文に、*

王既不用、自傷同姓見放、与屈子同悲、乃為九愁・九詠・遠遊等篇、以擬楚騒。
 王は既に用ゐられず、自ら同姓にして見放たるるを傷むこと、屈子と悲しみを同じくし、
 乃ち九愁・九詠・遠遊等の篇を為りて、以て楚騒に擬す。

とあるとおり、自身を屈原に重ねて表現した、『楚辞』の模擬作品だと見られます。

王室と同姓でありながら放逐された屈原、彼に自らの境遇を重ねるということは、
曹操が存命中であった建安年間の曹植には、その必然性がありません。

おそらく、『楚辞』の模擬作品だと言える「九愁賦」が作られたのは、
曹操の没後のことだったと見てほぼ間違いないでしょう。

一方、「七哀詩」は王粲や阮瑀らとの競作であった可能性が高く、
もしそうだとするとその成立は建安年間です。

そして、このふたつの作品の間で、
上述のような「泥」と「塵」との転換が起こっているのです。

建安年間の終焉を境に、大きく変化したものは何かといえば、
それは第一に、曹丕とその弟たちとの関係性でしょう。

しかも、「塵」と「泥」を対比的に示す表現は、
もともとは、古詩にも、『楚辞』にも、無かった要素です。
「七哀詩」や「九愁賦」は、敢えて独自にこの要素を加えているのです。
そこに、作者曹植の詩想の磁場を感じないではいられません。

2024年5月2日

*『曹集詮評』(文学古籍刊行社、1957年)p.216。丁晏にこの言及のあることは、曹海東『新訳曹子建集』(三民書局、2003年)pp.37の指摘によって知り得た。