「人虎伝」の読みを巡って

こんばんは。

ある授業で取り上げた中島敦「山月記」に関して、
そのもととなった李景亮「人虎伝」*1を読んでいてふと立ち止まりました。
それは、李徴が虎になった理由を示しているとされている部分です。

李徴には、かつてひそかに通じていた寡婦がいた。
そのことを彼女の家族に知られ、二人の間を邪魔されたので、
彼は風に乗じて火を放ち、一家数人、一網打尽に焼き殺して立ち去った。

これが原因で、つまり因果応報により李徴は虎と化した、
という捉え方が一般になされています。*2

ですが、この解釈は果たして妥当でしょうか。
というのは、上述のくだりは次のような文脈の中に置かれているからです。

まず、袁傪が吏員に書き取らせた李徴の詩が次のように示されます。

偶因狂疾成殊類  たまたま狂疾によって異類のものとなった
災患相仍不可逃  災患が次々に押し寄せて逃れることができなかったのだ
今日爪牙誰敢敵  今日 この爪牙に誰が敢えて歯向かうだろう
当時声跡共相高  あの頃 名声も足跡も 二人ともに高かったというのに
我為異物蓬茅下  我は 蓬茅の茂る草原に異類のものと為り果てて
君已乗軺気勢豪  君は 立派な車に乗る高官となって威風堂々たる勢いだ
此夕渓山対明月  この夕べ 山中の渓谷で明るく輝く月と向き合う
不成長嘯但成嘷  長く嘯(うそぶ)く声にはならず ただ咆哮の声となるばかりだ

この後に、次のような記述が続きます。

傪覧之驚曰、君之才行、我知之矣、而君至於此者、君平生得無有自恨乎。
袁傪はこの詩を読んで驚いて言った。
「君の才能と徳行は、私がよく知っている。
 そんな君がここまで切迫した言葉を連ねようとは、
 君はその昔、きっと自らへの痛恨を抱え込むようなことがあったのではないか。」

これに対する李徴(虎)の答えの中に、
自分には陰陽二気の万物生成の仕組みはわからないが、

もし「自恨」を自身の中に探ってみるならば、この出来事であろうか、
として告白されるのが、先に述べた、寡婦との私通と、その家族の焼殺です。

ということは、件の出来事は、李徴が虎になった理由ではなく、
直接的には、彼の作った詩が異様なまでの緊迫感を持っていた理由である、
ということになると思うのですが、いかがでしょうか。

いや、やっぱり違いますね。
「至於此」は、虎と化すような境遇にまで至ったのは、と読むべきなのでしょう。
ただ、袁傪はとっくに李徴が虎となったことを了解しているのに、
今更なぜここで驚愕しているのか、不可解です。

この点、中島敦の「山月記」はしっくりと腑に落ちます。

2020年7月1日

*1『国訳漢文大成(文学部第十二巻)晋唐小説』所収のものに依った。
*2 坂口三樹「「李徴」の転生:「人虎伝」との比較から見た「山月記」の近代性」(『中国文化』65、2007)に、従来の先行研究を概括してこう記す。