「何嘗・艶歌何嘗行」と「置酒・野田黄雀行」
先日来読んできた晋楽所奏「何嘗・艶歌何嘗行」は、
比較的近い劉宋の時代、一説に曹丕の作だとされていました。
特に、昨日示した部分には、詠み人知らずとは思えない具体性があって、
しかもその歌辞の内容は、曹丕と曹植との兄弟関係を彷彿とさせるものでした。
ただ、この作品には、
劉宋の王僧虔「大明三年宴楽技録」以外、
これを曹丕の作だと明示する、隋唐以前の資料がありません。
『文選』李善注や『藝文類聚』にも、この作品は引かれていないようです。
ですから、以下に述べることはあくまでも想像の域を出ないものです。
ただ、何か切り捨てられないものを感じるので、ここに書き留めておきます。
「何嘗・艶歌何嘗行」は、晋楽所奏「大曲」の中の一曲で、
これに続いて記載されているのが、曹植の「置酒・野田黄雀行」です。
曹植のこの作品は、かつてこちらで述べたとおり、
「大曲」の編者(おそらくは張華)は、曹植の悲運を悼んで、
この歌辞を「大曲」に組み入れたものと考えられます。
そして、「何嘗・艶歌何嘗行」がもし本当に曹丕の作であるならば、
この二篇の歌辞は、兄弟相互の関係性を追想させるように配置されています。
すなわち、まず兄の曹丕から弟の曹植への戒めを暗示する歌辞、
次いで、曹植とその腹心の者たちの悲劇を想起させる歌辞と楽曲とが、
隣り合わせに並べられているということです。
もしこの二篇の歌曲が連続して演奏されたなら、
魏王朝を弱体化させる遠因のひとつともなった曹氏兄弟の悲劇は、
これを聞く西晋王朝の人々にかなり具体的に思い起こされることとなったでしょう。
そして、現王朝における司馬氏兄弟の悲劇にも当然思いが及んだでしょう。
「大曲」の編者は、こうしたことをあらかじめ思い描いて、
「何嘗・艶歌何嘗行」から「置酒・野田黄雀行」への流れを設けたのではないか。
そのような妄想をかきたてられました。
2025年12月17日