「古典」と古典的文学作品

こんばんは。

昨日は、教免更新講習の資料のうち、日本文学に関わるものを校正しました。
たとえば、以前、岩波の新日本古典文学大系に拠って記していた資料を、
旧版の岩波日本古典文学大系に従って修正するといった作業です。
テキストは新しい方がよりよいのではないかと思いますが、
今年は図書館での調べ物がしづらいため、
手近にあるテキストを用いて確認作業をすることにしたのです。

すると、各本の間に文字や表記などの食い違いが予想以上に多かった。
だから、いずれのテキストに拠ったか、明記することが約束となっているのだと納得しました。

これは、日本文学の世界では当たり前のことなのかもしれません。
しかし、中国古典に関しては、必ずしも当てはまらないようにも思います。
たとえば、経書や正史、諸子百家などは、出典を記すのに書名と篇名だけで十分で、
いずれの出版物に拠ったのか、私は特に明記はしません。
(前に述べたとおり、最近の中国の論文はページに至るまで記すのですが。)

同じように「古典」と称せられてはいても、
その性格が少し違っているのではないかと思わされました。
中国古典の場合は、広範な人々にとっての普遍的な知の共有財産として、
必然的に、決定版というものに収斂していく方向に力が働き、
(もっとも、時代が変われば、決定版的解釈も切り替わっていきますが。)
片や日本の古典文学は、普遍よりは個別性を志向して展開してきたのではないか。
(いや、日本文学でも古典知の形成が認められるそうなのですが。)

中国でも、小説や戯曲といった古典文学には多種類のテキストがあると聞きますが、
日本の古典文学は、こうしたものの方に似ていると感じます。
(以上、管見による感想と空想です。)

2020年8月22日