「壺中菴」とは

こんにちは。

先日紹介した平賀周蔵の詩、
「夏日陪滄洲先生遊嚴島過飲壺中菴」にいう「壺中菴」は、
彼の別の詩「題嚴島壺中庵」にも見えています。

こちらは『白山集』巻5に収められており、
先日読んだ「夏日……」詩(巻3)とは離れた場所に置かれていますが、
これは『白山集』が作品を詩体別に収載しているためであって、
詩中に登場する人物の呼称などから判断して、
両詩が同時期の作である可能性は高いと思われます。

その「題嚴島壺中庵(嚴島の壺中庵に題す)」は次のような詩です。

仙醞醸来誰得同  仙醞 醸し来りて誰か同(とも)にすることを得ん
主人高興有壺公  主人は壺公有るを高興す
登楼終日飲難尽  楼に登りて終日飲むも尽くし難く
剰見名山縮地工  剰(あまつさ)へ見る 名山縮地の工

これを私なりに通釈すれば次のとおりです。

仙界の美酒が出来上がって、誰と共に酌み交わせるだろうか。
主人は、かの壺公のいることをたいそう喜んだ。
楼閣に登って終日飲んでも飲み尽くせないほど酒は無尽蔵にあるし、
その上、神仙の術により、すばらしい山々が眼前に迫って見えるであろう。

この詩の二句目に見える「壺公」は、
先の「夏日陪滄洲先生遊嚴島過飲壺中菴」にいう「懸壺仙」、
すなわち、後漢の費長房が弟子入りした、かの薬売りの仙人でしょう。

続く第三・四句に見える表現内容、すなわち、
楼閣に登って誘われた酒が、日暮れまで飲んでも尽きなかったこと、
壺公の導きで授けられた神仙の術により、遠くの山々の景観が間近に見えたこと、
これらはいずれも、葛洪『神仙伝』巻5「壺公」の項に記されている故事です。

こうしてみると、本詩に見える「壺公」は、
先日紹介した「夏日……」詩の「懸壺仙」であると判断されます。

さて、先に「懸壺仙」とは、医者の笠坊文珉ではないかと推測しました。
また、「夏日……」詩の末尾には、「酒泉」を有する「素封」が登場していました。

本詩においては、この「懸壺仙」すなわち「壺公」の存在を、
「壺中庵」の「主人」は大いに歓迎しています。

そうすると、この庵の主は、笠坊文珉と意気投合するような人物でしょう。

そして、詩中、その主を客体化して詠じていることからすれば、
この「壺中庵」の主は、平賀周蔵とはまた別の人だと考えるのが妥当でしょうか。
(自身を「主」と称することはあり得ない話でもないとは思いますが)

2022年8月12日