「大曲」の編者(3)

『宋書』楽志三に記されている「大曲」が、
「清商三調」の撰者、荀勗とは別の人物によって編まれたと仮定して、
では、その編者とはいったい誰なのでしょうか。

『宋書』楽志一には、
西晋宮廷音楽の歌辞制定に関わった人物として、
荀勗以外に、傅玄、張華、成公綏の名が記されています。
すなわち、泰始五年(269)のこととして見える、次のような記事です。

  晋武泰始五年、尚書奏使太僕傅玄・中書監荀勗・黄門侍郎張華
  各造正旦行礼及王公上寿酒食挙楽哥詩。
  詔又使中書郎成公綏亦作。
   西晋の武帝(司馬炎)の泰始五年、尚書が奏上して、
   太僕の傅玄・中書監の荀勗・黄門侍郎の張華に
   それぞれ正旦行礼、及び王公上寿、酒食挙楽の歌辞を作らせた。
   詔が下されて、重ねて中書郎の成公綏にも作らせた。

もしかしたら、この三名の中に、
「大曲」を編成した人物がいるのではないでしょうか。
そう仮定して、以下、しばらく推量を進めていくことにします。

さて、ここに登場する人物たちの生没年はそれぞれ次のとおりです。*1
  傅玄  217―278
  荀勗  217?―288
  成公綏 231―273
  張華  232―300

西晋宮廷音楽を司った中心人物は荀勗ですが、
彼は、武帝司馬炎に、その弟の斉王司馬攸を追放するよう仕向けることもしました。
かくして、司馬攸は憤死し(283)、このことは司馬炎をひどく後悔させます。
荀勗は、この一件がもとで王朝の中枢を外れ、晩年を鬱屈の中で過ごすこととなりました。*2

もし、「大曲」が荀勗のあずかり知らぬところで編成されたのだとすると、
その編成の時期は、荀勗が失脚した彼の晩年以降になろうかと推し測られます。
そう推量した上で、先の四人の生没年を振り返って見ると、
この時期、傅玄、成公綏はすでに没し、
張華ただ一人が生存しています。

張華についてはすでにこちらでも触れているのですが、
ここで改めて、彼を「大曲」の編成者として推定することができるか、
検討する価値があると思いました。

2023年5月10日

*1 曹道衡・沈玉成編撰『中国文学家大辞典・先秦漢魏晋南北朝巻』(中華書局、1996年)による。
*2 この一連の出来事は、福原啓郎『西晋の武帝 司馬炎(中国歴史人物選3)』(白帝社、1995年)p.170―180に詳しい。また、拙論「晋楽所奏「怨詩行」考 ―曹植に捧げられた鎮魂歌―」(『狩野直禎先生追悼三国志論集』汲古書院、2019年)でも論及した。