「文」とは何だろう

これまでにも何度か言及した言葉として、
『春秋左氏伝』襄公二十五年に記された次の句があります。

不言誰知其志、言之無文、行而不遠。
 言はずんば誰か其の志を知らん、之を言ふに文無くんば、行きて遠からず。

これは、鄭の子産が、その文辞によって、覇者である晋の詰問をくぐりぬけ、
陳への侵入について晋から容認を取り付けた、という出来事に対する孔子の評語です。

ですが、元々この辞句が置かれていた文脈を越えて、
今にも通じる普遍性を持つ語として、私は事あるごとに思い出します。
(それが古典というものなのでしょう。)

さて、前掲の句を平たく言うならば、
心中の思いは、言葉で言い表さなければ伝わらないが、
それが「文」を伴わなければ遠くまで届かない、ということです。

この「文」とは何なのでしょうか。

「文」は、「毛詩序」(『文選』巻45)にもこう見えています。

情発於声、声成文、謂之音。
 情 声に発し、声 文を成す、之を音と謂ふ。

ここで述べられていることは、前掲の孔子の語に重なるように思われます。
「情」は、孔子のいう「志」に、「声」は「言」に重なるでしょう。
そして、「声」が「文」を伴って音楽となるのだとあります。

更にまた、六朝期における「文」「筆」の違いをも想起させます。
「筆」は、韻律美が特に意識されていない作品です。

「文」は、語句のレベルでの修辞ということに留まらず、
もっと音楽的な要素を持つ言葉をイメージした方が近いのかもしれません。
詩歌や辞賦がそれに当たるでしょうか。

言葉が韻律やリズムを伴うとき、
それは人の心の中にまっすぐ入ってきて共振します。
詩を対象とするのならば、そこまで認識してこその論だと思います。

2026年1月30日