「清商三調」の語が指す範囲
目下の検討課題は、
西晋宮廷音楽における「大曲」の位置を、
「清商三調」との関係性に焦点を絞って明らかにすることです。
その際、あらかじめ明確にしておく必要があると考えるのは、
「清商三調」という語が指し示す範囲です。
というのは、「清商三調」という言葉は、
時代によって、その輪郭がかなりの振幅で動くように看取されるからです。
昨日も示したとおり、
『宋書』楽志三は、「清商三調」を定義して、
「荀勗の旧詞を撰びて施用せる者」と説明していました。
しかし、この西晋宮廷楽団は、王朝の滅亡(311)とともに散逸し、
北方の異民族系諸国を流浪した後、南朝宋の武帝によって奪還されました(417)。
この約百年間の空白は、西晋時代の原形をかなり損なったと想像されます。
したがって、南朝に入ってからの記録に見える「清商三調」には、
西晋時代のそれから外れる部分もあるだろうことを念頭に置く必要があります。
たとえば、『宋書』楽志一では、次のような文脈に「三調」が登場し、
そこに記された「(清商)三調」は、前掲の定義よりもやや広範囲を指すようです。
ひとつは、南朝の「呉歌雑曲」を列記し、それらを、
当初は徒歌であったが、後に管弦の伴奏が被せられるようになったもの、
と説明し、これらとの対比において、「三調」を次のように定義するくだりです。
又有因弦管金石造哥以被之。魏世三調哥詞之類、是也。
また別に、管絃や金石の楽器が奏でる楽曲にあわせて歌を作り、
そうしてできた歌辞に、楽曲の伴奏を被せるものがある。
曹魏の時代の「三調」歌辞の類がこれである。
もうひとつは、南朝劉宋の昇明二年(478)、尚書令の王僧虔が、
雑舞の類に金石の楽器の伴奏を付けるべきかという問題について上奏し、
あわせて「三調」の歌辞を論じたと記されている部分です。
その上表文の中に、次のようにあります。
今之清商、実由銅雀、魏氏三祖、風流可懐、京洛相高、江左彌重。
今の世の清商曲は、実に魏の銅雀台で歌われた諸歌曲に由来するもので、
魏王朝の三祖(曹操・曹丕・曹叡)が興した気風は深く敬慕され、
西晋の都洛陽で尊崇され、南朝では愈々重んぜられている。
このように、『宋書』楽志一に記された「(清商)三調」は、
『宋書』楽志三にいう、荀勗が選定した歌辞という要素を含んでいません。
三種の曲調(平調・清調・瑟調)を広く指す南朝の「清商三調」と、
漢魏の三調の諸歌辞から、荀勗が選んで制定した宮廷歌曲「清商三調」とは、
区別して論じる必要があると考えます。
そうしないと、論点が定まらなくなりそうです。
2023年5月4日