「鷂雀賦碑」の謎

昨日述べた「鷂雀賦碑」は、
宋の王象之撰『輿地碑記目』巻2・江陵府碑記によると、
枝江県(湖北省宜昌市)の内翰楊某の邸宅内にあったといいます。

事実として、たしかにそうなのでしょう。
ただ、湖北省という土地は、曹植と何か関係があったでしょうか。

たとえば、このひとつ前に記された「孫叔敖碑」は、
「即楚相孫君、諱饒、字叔敖、県人也。碑以漢延熹三年立」との注から、
楚の宰相であった孫饒(字は叔敖)は、*
当地出身であるが故に、この碑が建てられたと推察されます。
建てられたのは、後漢の延熹三年(160)で、
本人が生きた春秋時代からかなり下ってはいるのですが、
碑とそこに刻まれた人物とは、土地を介して密接に結びついています。

他方、曹植「鷂雀賦」の碑文はそうではなさそうです。
しかも、その少し後には、「曹子建碑〈在枝江〉」とも記されていて、
枝江県には「鷂雀賦」の碑文と曹植の碑文があったということが知られます。
両者が並んで立っていたのかどうかは知る由もありませんが、
もし仮に同じ機縁によって建てられたのだとすると、
これはどういうわけなのでしょうか。

内翰(翰林院)の楊なにがしという人物は、
よほど、曹植の「鷂雀賦」に惹きつけられていたのでしょうか。
建てたかったから建てた、以上のことは不明です。

2024年4月1日

*『史記』巻119・循吏列伝に伝記が載っている。