『文選』所収作品の配列

曹植の「七哀詩」は、『文選』巻23に収録されています。
そして、その後に王粲「七哀詩」が続きます。

この配列について、李善は次のように注記しています。

贈答、子建在仲宣之後、而此在前、誤也。

「贈答詩」(『文選』巻23・24)では、曹植の作品は、王粲の後に並んでいる。
ところが、ここ「七哀詩」では、王粲の前に置かれている。誤りである。

これとほぼ同じ指摘が、『文選』巻20所収「公讌詩」にもこう見えています。

贈答・雑詩、子建在仲宣之後、而此在前、疑誤。

このことは、かつてうっかり二度も記していましたので、
詳しくはそちらをご覧いただければ幸いです。(2019.07.02)(2021.11.18

では、「贈答詩」や「雑詩」(『文選』巻29)と、
「公讌詩」や「七哀詩」との分岐点はどこにあるのでしょうか。

「贈答詩」は、作者によって、詩を贈る相手は様々です。
「雑詩」は、基本的に対自的なスタンスで作られることが多い作品です。
つまり、作者としては、個々人であると言えます。

一方、「公讌詩」は宴という共通の場で共に作られるものです。
作者は、個々人というよりも、むしろ場であるとさえ言えるでしょう。

「七哀詩」の配列が「公讌詩」のそれに準ずることは、
その創作の場が、「公讌詩」に類するものであった可能性を示唆すると考えます。

曹植の「七哀詩」は、『文選』李善注に複数箇所引かれており、
その中には、『文選』所収作品ではない、次のような佚文も見えています。*

南方有鄣気、晨鳥不得飛。(巻28/21a李善注)
 南方に鄣気有り、晨鳥 飛ぶを得ず。

膏沐誰為容、明鏡闇不治。(巻31/3b李善注)
 膏沐 誰が為に容(かたちづく)らん、明鏡 闇(くら)くして治めず。

すると、二首が収載される王粲と同様、曹植にも複数の「七哀詩」があって、
そのうちの一首が『文選』に採られたのだろうと推察されます。

そして、曹植や王粲による複数の「七哀詩」は、
「公讌詩」と同様、ある機会や場を共有して作られた詩群として、
『文選』に先行する選集類で、ひとつにまとめられていた可能性がある。

あくまでも可能性ではありますが、
以上に述べたことから、こうした見通しは成り立つように思います。

2024年4月24日

*富永一登『文選李善注引書索引』(研文出版、1996年)を手引きとして確認した。このこと自体の指摘は、多くの先人たちによって夙に為されている。