そう言ってはみたけれど
こんばんは。
昨日、五言遊仙詩の生成過程を推論しましたが、
一日たってみると、あれは机上の空論だったと思えてきました。
考えていたことを正確に言うならば、
宴席という場を視野の中心に置くことによって、
詩歌(特に楽府詩)に、神仙という題材が流入した経緯を明らかにできるということです。
そして、ここまでは単なる思い付きだったわけではありません。
・後漢時代、楽府詩が宴席で行われていたことはすでに定説となっています。
・神仙に扮した演劇用の出し物が、宴席で行われていたらしいことは昨日述べました。
ただ、神仙を描いた楽府詩から、五言遊仙詩の登場までには少し段差があって、
そこのところは、詠史詩の生成経緯とまったく同じようにはいかないと思いなおしました。
『文選』の細目とその配列については、
それがいつの時点での枠組みであるのかが重要になってくると思います。
『文選』は、すでに存在していた選集からの二番煎じだと推定されていますから、*
当然、その文体の分類も既存の選集のそれを襲っていて、
それは、『文選』からそこまで遡らない時代の産物だと見てよいでしょう。
ただ、分類という作業において、その文体のたどってきた系譜はどこかに反映するはずです。
そのような意味において、詠史詩と遊仙詩との間にある近さ、
すなわち、両者が誕生した場の近さが示唆されているのではないかと考えたのです。
なにはともあれ、まずは作品そのものを精読することです。
曹植作品訳注稿は、公開が滞りがちではあるけれど、停止してはいません。
この訳注作業の中で、曹植の遊仙を詠じた楽府詩を読む際、
その成立背景に宴席という場を想定してみることは無意味ではないように思います。
たとえば、「遠遊篇」にいう、
「大魚若曲陵、承浪相経過(大魚は曲陵の若く、浪を承けて相経過す)」など、
宴会で披露された巨大な動物の出し物、魚龍曼延を彷彿とさせます。
曹植の遊仙楽府詩は、その詠懐的な側面がよく注目されますが、
そのジャンルがもともとどのような場で行われる文芸であったかを踏まえると、
その詩作の意味するところを、一歩踏み込んで理解できるのではないかと考えています。
2021年7月17日
*岡村繁「『文選』編纂の実態と編纂当初の『文選』評価」(『日本中国学会報』第38集、1986年)を参照。