どんなに貧弱に思えても

中国の楽府学会で発表する翻訳原稿を見直していて、
言語にはそれぞれ、それが扱う最適な大きさや形があるものだと感じました。
中国語に姿を変えた自分の原稿はまるで、
広い堂の中で、ひどく繊細な踊りを踊っているような感じです。
同僚の中国人の先生に訳していただいたのですが、
どう翻訳すればよいか、苦慮するところが多々あったとうかがいました。

以前、半年足らずほど中国で勉強していたとき、
異なる言語間でも通じる研究とはどのようなものかと考えました。
そのとき、自分の中で真っ先に却下されたのが、いわゆる文学研究でしたが、
このたびの会で試みるのは、そのような方向の研究発表です。

ちなみに、CNKIで中国の論文を検索してみると、
曹植の文学を取り上げた論文は3000件を超えるというのに、
彼の「七哀詩」とそれに基づく「怨詩行」とを中心的に論じたものは0件。
日本にはそうしたテーマの論文が複数件あるのに、です。
これは、彼我で興味関心の方向性が異なっていると言うほかありません。

そんな状況下で、果たして所論を理解してもらえるでしょうか。

ですが、今思うのは、
相手方の研究手法に従うのではなく、
彼我の折り合う中間地点に立つのでもなく、
自分にしかできない研究を全力でやろうということです。
それがどんなに貧弱に思えても、
自身の持ち味を活かしきったときはじめて、
誰かの手に届き得る研究成果となるのだと考えています。

それではまた。

2019年10月18日