なまけものの想像

こんばんは。

『文華秀麗集』中・楽府に、嵯峨天皇御製の「王昭君」が収録されています。*1
王昭君を詠じた楽府詩としては、石崇「王明君詞」(『文選』巻27)が名高いのですが、
嵯峨天皇の本詩には、石崇作品には無い要素が幾つか認められます。

まず、「漢」と「胡」とを対比的に詠じていること、
そして、「漢」たる「長安」を照らす「月」を詠じていること。
この二つの特徴は、六朝期の南朝の詩人たちが王昭君を詠ずる詩歌に認められるものです。*2

また、嵯峨天皇は、「蝉鬢」「玉顔」といった言葉で王昭君の容貌を描写しますが、
これもまた、六朝期末の宮体詩を彷彿とさせるものです。

以上のような特徴を備えている六朝期の作品として、
たとえば、梁の簡文帝蕭綱「明君詞」や陳の張正見「明君詞」がありますが、*3
嵯峨天皇はこれらの作品を参照していたのかもしれません。

では、こうした六朝期末の王昭君作品は、
どのようにして嵯峨天皇の目に触れることとなったのでしょうか。
『日本国見在書目録』卅九・(集部)別集家に、
「梁簡文帝集八十(巻)」「張正見集三(巻)」と見えていることから、
彼らの作品が日本に伝わって来ていたことは確実です。
嵯峨天皇は、前述の石崇「王明君詞」を収載する『文選』のみならず、
こうした別集類からも、王昭君にまつわる漢詩を広く摂取していたのでしょう。

ただ、平安朝の人々がみな別集類を一冊一冊読んでいたのかどうか。
「王昭君」は、後に『千載佳句』や『和漢朗詠集』などに独立した部立てが設けられるほどです。
もしかしたら、嵯峨朝の頃、このテーマの作品のみを集めたものが既にあったか、
あるいは、編纂しようという機運が高まっていたのではないか。

そう想像したりもするのですが、どうでしょう。
当時の人々を、なまけものの自分と同列に置くのは笑止千万ですが。

2020年10月19日

*1 その全文を、通釈とともに示せば次のとおり。

弱歳辞漢闕  髪上げをしたばかりの年で漢王朝の宮殿を辞去し、
含愁入胡関    悲しみを胸に秘めて匈奴の関所に入った。
天涯千万里    ここは天のはて、都を去ること千万里、
一去更無還    一度ここを超えたならば二度と漢へ戻ることはない。
沙漠壊蝉鬢    沙漠は、蝉の羽のように薄く梳いた鬢髪を痛めつけ、
風霜残玉顔    風や霜は、玉のような顔をそこなってしまう。
唯余長安月    ただ長安にも懸かる月が空に残っていて、
照送幾重山    幾重もの山々を超えていく王昭君を照らしつつ見送る。

*2 西川ゆみ「庾信北朝期作品における華北・長安表現の独自性」(『日本中国学会報』第69集、2017年)を参照。

*3 現在は、北宋末に成った郭茂倩『楽府詩集』巻29に、同系列作品をまとまったかたちで見ることができます。楽府詩を網羅的に収載するこの詩集は、嵯峨天皇の時代には、まだ存在していなかったものです。