ひそやかな弔い

昨日言及した荀勗は、
司馬氏に取り入って西晋王朝の中枢に居座っただけでなく、
西晋の宮廷歌曲群、いわゆる「清商三調」を選定した人物でもあります。

このことは、『宋書』巻二十一・楽志三に、

清商三調歌詩  荀勗撰旧詞施用者(荀勗の旧詞を撰して施用する者なり)。

と記されていることから知られます。

なお、正史『晋書』には、荀勗伝(巻三十九)その他のどこにも、このことは記されていません。
律呂を定め、雅楽を司ったことは複数個所に見えているのですが。

そんな、雅楽に比べて扱いが若干軽い「清商三調」、
注目したいのは、その中に、
魏王朝の皇帝たち(武帝・曹操、文帝・曹丕、明帝・曹叡)による多くの楽府詩、
さらには陳思王・曹植の歌詞までもが含まれているということです。

荀勗はなぜ、西晋の宮廷歌曲として、魏王室の人々の歌辞を選んだのでしょうか。

ひとつには、
滅びた王朝を丁重に弔うという、
当時の人々にとっては普遍的、伝統的な意識からでしょう。
魏の相和歌「薤露」「蒿里」などと同じ発想です(7月23日に少し触れました)。

ですが、ただそれだけだ、と言い切るのにもためらいを感じます。
荀勗にとって、魏王朝に見切りをつけ、西晋王朝に乗り換えたということが、
簡単には片付けられない、やりきれない、噛み切れない思いを伴うものであったとしたならば。

それではまた。

2019年8月2日