むき出しの人間存在

こんにちは。

本日、曹植「白馬篇」(『文選』巻27)の語釈をひととおり終えました。
これから通釈をする中で、さらに語釈が必要な表現が出てくるかもしれません。
訳してみて始めて分かっていない点に気づくことが多々あるので。
とはいえ、ひとつの作品の訳注稿の中で、小さな一区切りがつきました。

さて、その作業の中で、ふと目に留まった表現があります。

棄身鋒刃端  身を鋒刃の端に棄てん、
性命安可懐  性命 安(いづく)んぞ懐(おも)ふ可けんや。
父母且不顧  父母すら且つ顧みず、
何言子与妻  何ぞ子と妻とを言はんや。

北方異民族との戦いに自身の生命を投げ出そうとする男が、
父母でさえ世話をすることができないのに、どうして妻や子のことなど問題にできよう、
と気持ちを高ぶらせているくだりです。

これを見て、阮籍「詠懐詩」(『文選』巻23所収十七首の其三)の次の表現を想起しました。*1

一身不自保  一身すら自ら保たざるに、
何況恋妻子  何ぞ況んや妻子を恋ひんや。

切迫した状況下で、妻子を守り通すことの困難を述べるのに、
より重みがあると思われるものを対置させている、
その表現の発想がよく似ています。

ただ、阮籍のこの詩は、曹植「白馬篇」に歌われたような戦乱を背景にはしていません。
彼がこの詩を詠ずるに至った動機は、具象をすべて剥ぎ取られています。

そして、両作品の中で、妻子に対して、より重要なものとして対置されているのが、
曹植の作品では父母、阮籍の方は自分自身だという点で違っています。

こうした酷薄な内容自体は、
この時代の詩歌には特段珍しいものではありません。*2
しかしながら、妻子を持ち出して切実さを表現している点で、
阮籍詩は、曹植詩との間に実質的なつながりを持っている可能性を感じました。

阮籍詩における曹植作品の影響の可能性について、これまで何度か触れたことがありますが、
ひとりの人間の存在がごろりと投げ出されているようなむき出しの感覚は、*3
曹植作品には認められない点であるように、現段階では思います。

2021年3月31日

*1 黄節『阮歩兵詠懐詩註』、古直『阮嗣宗詩箋』等の配列では其三、『阮籍集』(上海古籍出版社、1978年)では其五。
*2 鈴木修次『漢魏詩の研究』(大修館書店、1967年)第二章第五項三「非情の文学について」、及び「漢魏の詩歌に示された非情な文学感情」(『中国中世文学研究』第3号、1963年12月)には様々な具体例が示されている。妻子を見捨てる話に限らず、非情な文学感情はこの時代に顕著である。
*3 こちらでも述べたが、吉川幸次郎『阮籍の「詠懐詩」について 附・阮籍伝』(岩波文庫、1981年)は、こうした視点から論じられている。