もうひとつの「慈母」の意味

曹植の「霊芝篇(鼙舞歌2)」は「孝」を詠じていますが、
そのもととなった漢代「鼙舞歌」の「殿前生桂樹」も同様であったと見られます。
(曹植「鼙舞歌」は漢代のそれを忠実に再現しようとしたものです。*)

そして、「殿前生桂樹」の背後には、
清河孝王慶にまつわる史実(『後漢書』章帝八王伝)があったと思われます。
このことについては、過日こちらで述べました。

さて、この史実を前掲『後漢書』で確認している時に、
章帝の詔の中に、「慈母」という語のあることに目が留まりました。

この詔は、竇皇后のウソの奏上を信じた章帝が、
皇太子である劉慶を廃し、肇(後の和帝)を太子としたものです。

竇皇后は、劉慶とその母宋貴人を陥れんと誣奏をし、
かくして彼女は、自身の育てた劉肇を皇太子とすることができたのです。

その章帝の詔の中に、
「蓋庶子慈母尚有終身之恩(蓋し庶子の慈母すら尚ほ終身の恩あり)」、
まして、皇后に正しく育てられた肇であれば大丈夫だ、
というくだりがあります。

吉川忠夫訓注『後漢書』第七冊(岩波書店、2004年)は、
この部分に「慈母は育ての母」と説明した上で、
李賢等注に『儀礼』喪服の「慈母如母」を引くことを示しています。

この意味での「慈母」は、まさしく竇皇后そのものです。

ところで、曹植「霊芝篇」の末尾にもこの語がこう見えています。

陛下三万歳  陛下 三万歳、
慈母亦復然  慈母も亦た復た然り。

このように言祝ぐ曹植の歌辞は、
直接的には文帝曹丕と自身の母でもある卞皇后を指すでしょう。

他方、もしかしたらこれに類する文脈で、
漢代「殿前生桂樹」も「慈母」という語を用いていたかもしれないと思いました。

その場合は、清河王劉慶が、和帝と竇皇后を言祝ぐこととなるでしょうか。
劉慶は、和帝とはとても親しい間柄でしたが、
竇皇后は、自身の母を自殺に追い込んだ人なのですから、
これは辛いです。

もっとも、「殿前生桂樹」がこの間のことを詠じているとは限らないし、
そもそも歌辞が史実を直接反映するとも限りませんが。

2025年1月8日

*拙稿「漢代鼙舞歌辞考―曹植「鼙舞歌」五篇を媒介として」(『中国文化』第73号、2015年)を参照されたい。