アカデミズム雑感

こんにちは。

中国の論文データベース(CNKI)では、
論文タイトル、著者名、出典(雑誌名など)、出版年のほか、
他の論文に引用された数や、ダウンロードされた数までもが表示されています。
しかも、検索結果一覧の末尾には有名な著者がピックアップされていて、
そうした著者については詳しい情報が得られるようになっています。
そして、そこでもまた、引用件数、ダウンロード件数の多い論文が列記されています。

これは、ひとつには論文の数が非常に多いためかもしれません。
あらかじめ利用者に論文の価値を数値化して示せば便利だということなのでしょう。

いかがなものかとは思いますが、自分だってわりとそれを参考にします。
中国の学界にそれほど詳しくないため、論者を見て読むべき論文か判断することが難しいので。

ただ、こうした趨勢下では、まったく新しい見方がここから生まれることは少なくなるでしょう。
新しい知性が、アカデミズムでない場所から生まれていることはすでに実感していますが、
古典研究の場合は、一定の基礎的な訓練のようなものがどうしても必要で、
そうしたものを育むのは、やはりアカデミックな場所ではないだろうかと思うのです。
(アカデミズムは本来、非常に自由闊達なもので、大学という機関には限定されないけれど。)

そのアカデミズムが崩壊しつつあるのが今の日本でしょう。
そして、そのような現状を招いたのは、大学の内部にも原因があると私は思います。

なお、自分は、投稿先が全国的な学会誌だろうが、紀要だろうが、同じ姿勢で臨みます。
(一旦書くモードに入ったら、何に投稿するのであろうが同じです。)
若い人々は、業績が点数化されますから、そんなことも言っておれないかもしれません。
私がこんなことを言えるのも、定年も近い気楽な身分だからかもしれません。
せめて、アカデミズムのヒエラルキーからは自由な立場から、
若い研究者の方々を励ますことを心掛けたいです。

2020年5月6日