パトロンと芸術家
一昨日、大事なのは見せ方ではなくて中身だと少し強気に述べましたが、
こんな風に言い切れるのは、大学に職を得ているからでしょう。
曲がりなりにも研究がその仕事の柱の一つなのですから。(いい気なものです。)
それで、言い切った後から、少し考え込んでしまいました。
もしこれが、たとえば作家、画家、ミュージシャン等だったらどうなのだろう。
どんなに自身が思い描く芸術性を追求したくても、
商売ということをまったく無視しては生活できないのではないだろうか。
そうでなければ、生活の糧は別に確保されているのだろうか。
思えば、これは中国六朝期の文人たちと環境が少し似ているかもしれません。
彼らは、官職に就くのでなければ、有力者の庇護を得て言語芸術活動を行うのが普通で、
“芸術家”という独立した職業があるわけではなかったですから。
昔の文人たちはパトロンが貴族でしたが、
今のアーティストは、大衆社会というものがパトロンでしょうか。
たとえば魏の建安詩人たちの作品でも、
君主主催の宴にて奉る詩、宴席で競作される遊戯的な詩、贈答詩などがある一方で、
誰に向けられたわけでもない歌詩も少なからずあって、
そこではかなり個人的な、正直な気持ちが吐露されていたりもします。
そのように、ジャンルごとに表現姿勢を変えていただけでもなく、
たとえば遊戯的な競作詩の中に、その人物の思いや工夫が織り込まれている場合もある。
こうしてみると、いつも何者かのために魂を売り渡している、というわけではないですね。
昔の詩人たちのみならず、今のアーティストも、もっといえば私たちの誰もがそうなのだと思います。
それではまた。
2019年8月10日