中島敦のこと

こんばんは。

私は中島敦の小説がとても好きです。
ある授業の中で、彼の生涯に触れる必要があって年表を作成したのですが、
あらためて、その小説家としての活動期間があまりにも短いことに愕然としました。

もちろん、それまでにも一部の草稿は書かれているのですが、
小説を書くということに専念したのは、彼が三十三歳で亡くなる最後の一年間だけです。

中島敦は、二十代の半ばを、横浜高等女学校の教諭として過ごしていますが、
その間の仕事ぶりは至って真面目であるように私には見えました。
国語、英語、地理、歴史の授業を1週間に23時間担当し、
修学旅行や課外活動の引率も引き受けています。*

あれほどの小説を書いた人が、なぜもっと早く執筆に専念しなかったのか。

そのわけは、遺稿エッセイ「章魚木の下で」から掬い上げることができるように思います。
彼はこの短い文章の中で、次のようなことを書いています。(改行はこちらで加えた)

国民の一人として忠実に活きて行く中に、
もし自分が文学者なら其の中に何か作品が自然に出来るだろう。
しかし出来なくても一向差支えない。
一人の人間が作家になろうとなるまいと、そんなことは此の際大した問題ではない。

(文学を見縊っているのではなくて、という趣旨の文の後に)
却って文学を高い所に置いているが故に、
此の世界に於ける代用品の存在を許したくないだけのことである。
食料や衣服と違って代用品はいらない。
出来なければ出来ないで、ほんものの出来る迄待つほかは無いと思う。

章魚木の島で暮らしていた時戦争と文学とを可笑しい程截然と区別していたのは、
「自分が何か実際の役に立ちたい願い」と、
「文学をポスター的実用に供したくない気持」とが頑固に素朴に対立していたからである。

戦時中であるだけに、今から見れば偏った表現がなくもないのですが、
エゴイズムの対極に位置するようなこうした考え方を、私はとても美しいと感じます。
(読めばわかるとおり、お国のために滅私奉公をせよ、と主張する文章ではありません。)

そして、こう感じるのは、自分が中国古典に近しい現代人だからだろうと思います。

2020年6月24日

*勝又浩「中島敦年譜」(『中島敦全集3』ちくま文庫、1993年)を参照。