亡国の民の気持ち
先週末、福岡に出向いたとき、
ふと思い立って、九州大学箱崎キャンパス跡地を訪れました。
レンガ造りの工学部の建物以外は何もない、荒野を目の当たりにして、
一瞬、祖国を失った者の思いが自分と重なったような感覚におそわれました。
そこには、白骨もなければ、雑草の生い茂る廃屋もなく、
むしろ、これから何かが建てられていくのであろう囲いなどがあります。
けれど、私にはその光景が、時の趨勢によってなぎ倒された
「大学」の残骸のように感じられてなりませんでした。
それは、大学が移転を余儀なくされた実際の理由とは関わりません。
(それについては、自分は何も知りませんし、言う資格もありません。)
もっと漠然とした、ここ三十年ほど自分も身を以て体験してきた、
基礎的な学問に対する無理解と軽視、のようなものです。
基礎的な学問は、決して社会から切り離された、特権的な領域ではないと思う。
ただそれが社会に還元されるまでの時間的サイクルが異なるだけです。
人間社会には様々な組織や団体がありますが、
それらがすべて同じ価値観、同じ時間的サイクルで動いたらどうなるか。
そこに豊かな未来があるようにはとても思えません。
大学というものは、世間とは異なる存在のしかたを保持してこそ、
社会に対して真の貢献ができるのだと思います。
もっともそれは、旧来の学問の中に安住することでは決してありません。
ひとりひとりの研究者は常に自らを更新し続けています。
また、自分たちの社会的地位を守ろうとしているわけでもありません。
(よくこのような決めつけられ方をしたものですが。)
話が茫漠と広がっていくばかりなのはよろしくありません。
また具体的な考察へ戻りたいと思います。
「祖国」は失われたけれど、恩師の教えは常に心の中にあります。
岡村繁先生から学んだことを次世代の方々へ繋いでいく、
そのために自分にできるのは、真っ当な論文を書くということに尽きます。
立派な論文は書けなくても、姿勢として真っ当なものは目指せます。
2024年5月14日