人は自然に学を好むのか?
人は自然に知的探究心を持つ生き物でしょうか。
そういう人もたしかにいると思います。
でも、そうではない人が大部分を占めているのが現実かもしれない。
「国語」でも習う『荀子』勧学篇は、人間が生来持つ惰弱さと可塑性を前提としています。
魏の嵆康(224―263)には、張邈の「自然好学論」に反駁した「難自然好学論」という作品があります。
このようなことを思い起こしたのは、
本日、一年生の自由研究の発表会で次のような発言を聞いたからです。
先輩たちにアンケートを取って、授業の選択理由を聞いたところ、
1番目には、自分が興味のあるものを選択する、
2番目には、単位が取りやすいものを選択する、という結果だった、と。
このうち、1番目の選択理由は、一見とてもよさそうです。
ですが、私にはここに大きな落とし穴があるように思えて仕方がありません。
というのは、
個々人によって「興味のある」の意味する範囲が違うから。
大部分の学生は、現時点において「興味のある」科目を選ぶでしょう。
すると、今の自分には興味がもてない、咀嚼できないものは避けられてしまいます。
それが価値のないものだと言えるか、そこに大きな疑問を感じるのです。
(もちろん、今はわからないけれど何か面白そう、と選択する学生もいるはずですが。)
親しみやすく、わかりやすいものばかりがよしとされることに納得がいかない、
歯ごたえのあるものの中に、いつかその人を支える滋養となり得るものも含まれているのではないか、
そう思えてなりません。
これは、必ずしも自分の専攻する古典の凋落を嘆いているのではありません。
学生たちの自由選択を最大限に重視した結果、
継承すべきものが凋落していく流れを長年見てきたという背景からです。
他方、年齢を重ねてからも学べる環境ができればいい、とも言えるかもしれない。
実利には関わらない純粋な学問は、いつだって始められるはずです。
それではまた。
2019年7月25日