他者を理解したい

こんばんは。

先日から断続的に考察している「惟漢行」ですが、
曹植はこの楽府詩を作ったことによって魏王朝の不興を買ったらしい。
そのことは、ほぼ同時期に作られた「求自試表」(『文選』巻37)から推し測れます。

では、なぜ「惟漢行」は曹植の境遇を悪化させたのでしょうか。
その頃(太和元年)、明帝曹叡はまだ即位したばかりです。
その時点で、明帝は皇帝として直接曹植と面会したことはありません。
(明帝が曹植ら諸王と再会したのは、太和六年(232)正月前後のことでした。)

先代の文帝には、兄弟たちを冷遇する理由が、彼なりにあったのだろうと思われますが、
(皇帝として適切さに欠ける、多分に私情の介入した理由ではあっても)
明帝に曹植を冷遇しなければならない動機はあったでしょうか。
もしかしたら、明帝その人の判断によるのではなく、
明帝を取り巻く臣下たちが、曹植に対する待遇を決めたのかもしれません。
それを明らかにしたいと思い立ちました。

「惟漢行」には、「求自試表」と照らし合わせて始めて見えてくるものがあります。
「薤露行」と「与楊徳祖書」(『文選』巻42)、
「雑詩」の特に其五と、「責躬詩」及びその上表文(『文選』巻20)との関係も同じです。
詩が、現実に働きかける文章と深く関わりあっていて、
その文章の外側には、それを曹植に書かせるに至った具体的な状況があったはずです。
その具体的背景を押さえなくては、曹植その人の思いには近づけません。

別に作者の人生や思いを明らかにする必要はない、
作者と作品とを切り離して、表現そのものを分析すべきだとする考えもあるでしょう。
ですが、私はそちらの方向ではなく、作者の思いを明らかにする方向を取ります。
自分は元来が狭い人間なので、もっと多くの他者と出会いたいからです。

自身を中心とした同心円を描くのではなくて、
遠く離れた人の思いを核として、あちらとこちらの双方に中心点を持つ曲線を描いていく、
そうすれば、自分の狭い思い込みを打破することができると思っています。

2020年8月15日