仮託の有無

こんばんは。

昨日、曹植「雑詩六首」其三には仮託するところがあるだろうと述べました。

しかしながら、この詩は古詩への接近度が非常に高く、
ひとつの遊びとして擬古的に作ってみせたものである可能性も否定できません。

それでは、自分はなぜこの詩を前述のように捉えたのか。
その感じ方の出所を探ってみたところ、かなり明瞭な根拠が浮かび上がってきました。

それは末尾の次の二句です。
「願はくは南流の景(ひかり)と為りて、光を馳せて我が君に見えんことを。」

ここに詠じられた君は、なぜ南方にいるのでしょうか。
この要素は、古詩の中には見当たりません。

また、「願為……」という措辞は、
多くの古詩では、鳥になりたいと詠うのであって、
自らが太陽の光になりたいと詠う本詩の詩想は突出しています。

なぜ南方の君なのか、なぜ光になりたいのか。

本詩が放つこの独特の輝きは、
本詩を戯作的な擬古詩と捉えている限り、
その由来するところを明らかにすることはできません。

だから、この詩の背後には何か隠された主題がある、と感じたのだとわかりました。

2020年5月28日