仮説の見直し
こんにちは。
現在行っている曹植研究は、
中国の古代から中世への移行期に位置する曹植文学の、
“文学としての自立”を明らかにすることを目的としています。
では、“文学として自立した”作品とはどのようなものなのでしょうか。
それは、次の二つの要素を備えたものであると私は考えます。
まず、作者自身が、自らの内発的動機から創作に至ったものであること。
そして、その作品が見知らぬ他者に届く普遍性を持っていること。
曹植作品の中でも、特に魏朝成立後、不遇な日々の中で作り出されたものは、
この条件を満たしているのではないか、と予測していました。
ですが、この仮説は見直す必要があるように思います。
近い時代の人々に波及した曹植作品を見ると、
必ずしも、その不遇時代の作だとは限らないからです。
たとえば、先にこちらで述べたように、隣接する時代の阮籍「詠懐詩」には、
曹植「箜篌引」の「磬折」という特徴的な語が用いられていますが、
この曹植の楽府詩は、彼の「贈丁廙」詩との類似性から見て、
建安時代の作である可能性が高いと判断されます。*
また、こちらで述べたように、陸機「文賦」(『文選』巻17)には、
曹植「七啓」(『文選』巻34)を踏まえたと見られる対句が認められますが、
「七啓」は、その序文に王粲の名が見えていることから、
明らかに建安時代の作です。
言葉は苦難の中でこそ磨き上げられるという、
手垢にまみれた仮説を立てていたことに恥じ入るばかりです。
曹魏王朝が成立してから後の苦難の中で、
曹植が、その為人を少なからず変形させたことは事実なのですが、
それが彼の言葉にどう影響を及ぼしたのか、よく考え直したいと思います。
また、一口に後世の人々と言っても、
それらの人々と曹植文学との関係性は一様ではありません。
この点も、よく吟味する必要があると思います。
2022年11月29日
*趙幼文『曹植集校注』(人民文学出版社、1984年)は、巻三すなわち明帝期太和年間に繋年している(p.459―462)。