何かが無いということの意味

こんばんは。

昨日述べたことは、以前ある学生から、
中国文学では猫はどのように描写されているのですか、と聞かれたことが事の発端です。
(ある授業での自由研究に必要だったようです。)

この質問の根底には、暗黙裡に、
中国文学作品の中にも当然、猫が描かれているはずだという前提があります。

ところが、聞かれて思い当たるところがありません。
そこで、唐代初めに成った類書『藝文類聚』を当たってみましたが、
「猫」の項目そのものがありませんでした。*
清朝の『淵鑑類函』まで下れば、項目として立ってはいましたが、
そこに引かれている文献は、近世のものが圧倒的多数だという傾向が見て取れました。

後日、「寒泉」の『全唐詩』データベースを当たってみましたが、
やはり唐詩には、猫はそれほど登場しないということが確認できました。

それで、猫はなぜ、こんなに言及されることが少ないのだろうと考えてみたのです。

私たちはよく、有るものには目を引かれて分析検討を始めたりしますが、
無いもの、空白については、特に意に留めず、そのまま通り過ぎることが多いように思います。
(そもそも、たしかに無い、ということを明言することは至難の技ですし。)
ですが、無いということ(あるいは乏しいということ)そのものが、
何かを物語っているということはあるように思います。

2020年8月2日

*盛唐に成った『初学記』にも無し。北宋の『太平御覧』巻912・獣部二四、『太平広記』巻440・畜獣七には猫の項目が立てられ、少数ながら文献が引かれています。(2020.08.03追記)