個人に属さない知的財産
こんにちは。
昨日、あのようなことを話し始めたのは、
『文選』巻20、曹植「上責躬応詔詩表」の李善注に引くある文献の内容が、
同じ時代の別の人物が著した書物の中にも認められたからです。
それは、「陛下」という語に対する説明です。
李善が引いていたのは、後漢末の応劭の『漢書集解』でした。
『漢書』巻1下・高帝紀下にいう「大王陛下」について、
初唐の顔師古の注が、応劭の解釈を次のとおり引いて説明しています。
陛者、升堂之陛。
王者必有執兵陳於階陛之側。
群臣与至尊言、不敢指斥。
故呼在陛下者而告之。因卑以達尊之意也。
若今称殿下、閣下、侍者、執事、皆此類也。
陛とは、堂に升るための階段である。
王なる者には、必ず兵器を手にして階段の側に居並ぶ者たちがいる。
群臣が至尊なる王に申し上げる場合、敢えて名指しはしない。
わざわざ階段の下にいる者を呼んで、これに告げる。
身分の低い者によって最も尊い存在に取り次いでもらうということだ。
たとえば今、殿下、閣下、侍者、執事と称するようなものは、皆この類である。
ところが、同じ時代の蔡邕も、
その『独断』巻上で、ほとんど同じことを述べています。
陛下者、陛階也。所由升堂也。
天子必有近臣執兵陳於階側、以戒不虞。
謂之陛下者、群臣与天子言、不敢指斥天子。
故呼在陛下者而告之。因卑達尊之意也。上書亦如之。
及群臣士庶相与言曰殿下、閣下、執事之属、皆此類也。
陛下なる者、陛は階なり。由りて堂に升る所なり。
天子には必ず近臣の兵を執りて階の側に陳び、以て不虞を戒むる有り。
之を陛下と謂ふは、群臣の天子に言ふに、敢へて天子を指斥せず。
故(ことさら)に陛下に在る者を呼びて之に告ぐ。
卑(ひく)きに因りて尊に達するの意なり。上書も亦た之の如し。
群臣・士庶に及んで相与(とも)に言ひて殿下、閣下、執事と曰ふの属は、皆此の類なり。
見てのとおり、語句の多くが応劭『漢書』集解と重なっています。
どうしてこのようなことが起こったのでしょうか。
福井重雅氏による『独断』の解題に、
本書は、蔡邕が、自ら師事した胡広の『漢制度』を底本として執筆したもので、
その成立は、本書中の記述から、熹平元年(172)頃と推定される、
との見解が述べられています。*
蔡邕(133―192)の『独断』と、
応劭(?―204以前)の『漢書集解』との前後関係は未詳です。
では、応劭と蔡邕との間に接点はあったのでしょうか。
それとも、いずれかの書物が、成立と同時に人々の間に伝播して、
どちらかが、どちらかの著した書物を目睹することができたのでしょうか。
あるいは、二人がともに参照した書物があるのでしょうか。
前漢中期の司馬遷『史記』から、後漢前期の班固『漢書』へ、
前漢末の劉向「別録」・劉歆「七略」から、班固『漢書』藝文志へ、
といった記事の取り込みは、異なる時代間での継承です。
蔡邕と応劭のように、同じ時代の撰者どうしの場合、
そのほとんど同じ記述は、どのような関係にあると見るのが妥当でしょうか。
当時の著述や、それを記した書物の伝わり方が自分には謎です。
(もしかしたら周知のことなのかもしれませんが。)
知的共有財産という話題からすっかり逸れてしまいました。
2021年8月26日
*福井重雅『訳注西京雑記・独断』(東方書店、2000年)p.199を参照。