個人の心を描く文学
こんにちは。
もう一か月以上も前のことになりますが、
本年度も副査としてかなりの本数の卒論を読み、口述試問に当たりました。
うち、半分の卒論は社会科学系、半分は近現代の日本文学です。
ここ何年かの傾向として、
近現代日本文学を対象とした卒論の中に、
ライトノベルを対象としたものが含まれるようになってきました。
指導に当たられた先生や、それを書いた学生との対話から分かったことは、
このジャンルの作品は、
誰かひとり、作者がいるのではなくて、
テーマを思いつく人、それを発展させる人、書く人、
更に、その作品を世に送り出すために装丁等を魅力的にする人、
その物語を、映画や漫画、テレビドラマなどに移し替えて展開する人々など、
多くの人々の手によって成る総合文芸だということです。
これは、たとえば中国文学の世界では、小説や戯曲といった分野とよく似ています。
そして、そうした文芸を享受する層もまた似通っているようです。
もしかしたら、近代以降の文学は曲がり角にさしかかっているのかもしれません。
たとえば、近代という時代の歪みが生み出した自我の内面を言葉で抉り出すような小説は、
すでに大多数の人々には必要とされなくなってきているのかもしれません。
ただ、人の心というものは、古代から今に至るまで、
それほど形を変えずに存在し続けていることもまた確かでしょう。
それが、文学というジャンルの扱うものではなくなってきているというだけで。
思えば、わたしが取り組んでいる中国3世紀の文学は、
個人の内面を描くことに文学の価値を置いていたわけではなくて、
それよりも、言葉でどう表現するかというところに心血を注ぐものでした。
にもかかわらず、当時の作品のいくつかには、作者自身の生々しい心情が息づいています。
わたしが強く惹きつけられるのは、そうした個人の唯一無二の思いが垣間見える作品です。
その時代の圧倒的多数を占めている、“みんなの歌”にはそれほど関心が向きません。
それは、わたしがかろうじて近代文学の世界に棲んでいるからでしょうか。
あるいは、個人の思いに目を向けることも、普遍に至るひとつの細い道なのでしょうか。
わたしは曹植のことをいつか理解したいと思っています。
ひとりとして、誰かに理解されることを拒む人はいないのではないでしょうか。
(どうでもいい他人から勝手に決めつけられるのはごめんですが。)
2021年3月17日