兄曹丕の詩句の影響か?
こんばんは。
曹植の「五遊詠」(『曹集詮評』巻5)に、次のような対句があります。
披我丹霞衣 我が深紅の霞の衣を着て、
襲我素霓裳 我が白絹色の虹の裳裾を重ねる。
これは、『楚辞』九歌「東君」にいう、
「青雲衣兮白霓裳(青雲の衣に白霓の裳)」を踏まえています。*1
白い虹の裳という発想でも、「衣」と「裳」とを対置させている点でも、
このことはたしかだと言えます。
ただ、『楚辞』の場合は、「青」と「白」とが対を為していました。
曹植の場合は、「丹(深い朱色)」と「素(白)」です。
では、この色のコントラストは、曹植独自のものなのでしょうか。
逯欽立『先秦漢魏晋南北朝詩』を調べてみると、*2
「素霓」の語は曹丕、曹植に各1、西晋の傅咸に2ヶ所用いられているだけで、
「白霓」は用例無しでした。
現存する作品は実在したもののごく一部だということを念頭に置いた上で、
それでも、上述の用例の偏りには興味を惹かれます。
上記の曹丕の作は「黎陽作詩(黎陽にて作る詩)」(『藝文類聚』巻59)で、
その中には次のような対句が見えています。
白旄若素霓 白い旄(はた)は、白絹色の虹のようで、
丹旗発朱光 丹色の旗は、朱色の光を放っている。
ここでは、「白・素」と「丹・朱」とが対を為していて、
その色の対比は、前掲の曹植作品と同じです。
曹丕のこの詩は、建安八年(203)、彼が17歳の時に、
曹操が黎陽を攻めて袁譚・袁尚を破った行軍に従って作られたといいます。*3
もしかしたら、曹植が五歳年上の兄の詩句を覚えていて、
後年、それをアレンジして「五遊詠」に用いた可能性はないかと想像しました。
十代の時点では、まだ兄弟間の確執は生じていませんでしたし、
12歳と17歳との差はけっこう大きいですから、
見上げるような兄から、少年曹植は様々なことを吸収していたかもしれません。
2021年7月25日
*1 黄節『曹子建詩註』(中華書局、1973年)巻2、p.81に指摘する。
*2 逯欽立『先秦漢魏晋南北朝詩』の電子資料(凱希メディアサービス、雕龍古籍全文検索叢書)を用いた。
3 夏伝才・唐紹忠校注『曹丕集校注』(河北教育出版社、2013年)p.1を参照。