先行研究との対話(承前)
こんばんは。
曹道衡は、曹植を政治的野心を持った人物として捉えているようだが、
若い頃の作品を見る限り、そこに現れる曹植の人物像は必ずしもそうではない、
という趣旨の私見を昨日述べました。
これ、実はものすごく常識的なことを今更ながらに言っていると思います。
たとえば、とっくに吉川幸次郎「三国志実録 曹植兄弟」の中に、*
“曹植は兄の曹丕よりもより多く詩人であった”
というふうな言葉が見えていますから。
しかし、吉川幸次郎だから、このような表現が認められるのであって、
自分が同じことを同様の言葉で書くわけにはいきません。
自分としては、その主張を証明するために作品の表現に目を凝らすのではなく、
彼の作品を精読していると、頻繁に立ち止まらせられるのです。
なぜこんなことを唐突に言い始めたのか、
全体として構成がひどくアンバランスではないか、
こんなことを面と向かって言うのはあまりに失礼ではないか、等々。
それをなぜかと考えていけば、思いがけない人物像や事の経緯が垣間見えてくる、
それが私の読み方であり、考察の深め方です。
たいへん面倒くさい話をしているのだろうと思います。
けれども、自分にはこれがとても面白いし考えがいもあるものです。
ただ、学生には卒論ゼミに選んではもらえません。
もちろん自分の研究内容を授業で全開にしたりはしていませんがそれでも。
ちなみに、吉川幸次郎の「三国志実録」は一般の人向けに書かれたものです。
世間の人々も興味を持って読んでいたのかと思うと愕然とします。
2022年2月15日
*『吉川幸次郎全集7』(筑摩書房、1968年)所収。初出は、1958年1~12月『新潮』。