先行研究の少ない作品
考察中の曹植の「薤露行」と「惟漢行」について、
これを正面から取り上げた先行研究は、CiNiiやCNKIで検索する限りは見当たりません。
魏晋南北朝期を代表する詩人として、曹植には幾多の先行研究があります。
それなのに、なぜ上記の二作品は等閑視されてきたのでしょうか。
中国の詩人のほとんどは、儒家思想の体現を志しているといってよいでしょう。
自身の知力を存分に発揮して為政者を補佐し、人々の生活の安定に寄与するという志です。
ところが、後世にまで記憶される詩人の多くは、この理想から外れる生涯を余儀なくされています。
「薤露行」や「惟漢行」は、曹植の儒家的な志に密接に連なる作品です。
それが、文学作品としてつまらないかどうか、私には評価をするだけの力はありません。
ただ、自分たちにも通底するような普遍性をそこに見出すことはなかなか難しい。
だから、論じる人が少ないのでしょうか。
数少ない例として、小守郁子「曹植論Ⅰ」*が、「惟漢行」の本文を引用して論じ、
その前には曹操の「薤露」を承けた「薤露行」への論及も見られます。
今自分が取り組んでいることと、取り上げる文献資料は多く共通しています。
ですが、その用い方やつなげ方が異なっている。つまり、論としては別物になりそうです。
それではまた。
2020年2月17日
*『曹植と屈原 付「風骨」論』(小守郁子、1989年)所収。初出は『名古屋大学文学部研究論集』69号、1976年3月)。