再び「怨歌行」の作者について

おはようございます。

一説に曹植作とされる「怨歌行」は、
かつて検討したとおり、また一説に詠み人知らずとも伝えられているのでした。

この楽府詩を読み返していて、ふと気づいたことがあります。

本作品の冒頭「為君既不易、為臣良独難」は、
『論語』子路篇にいう「人之言曰、為君難、為臣不易」を踏まえていますが、
こうした君臣関係は、中国史上いくらでもその事例を挙げることができるでしょう。
よく知られているところでは、『楚辞』のヒーロー屈原がその代表格ですし、
曹操「薤露」の末尾に見える、殷の微子(『史記』殷本紀)も同様な逸話を持つ人物です。

ところが、この「怨歌行」は、前掲のような導入を受けて、
忠信の気持ちが表に現れず、そのために疑念を持たれた人物として、周公旦を挙げています。
屈原のような人物には目もくれず、
臣下たることの困難を、まっすぐに周公旦に結びつけて詠じているのです。
もちろん、第一には、屈原のような悲劇的最期を回避し、
ハッピーエンドで締めくくりたい意図がそうさせたのでしょうが。*
いずれにせよ、ここに、本詩の作者が持つ関心のベクトルが見て取れます。

「怨歌行」は両晋時代に歌われていました
そして、その歌辞が作られた時期、
周公旦に対して上述のような傾倒を示す人物といえば、
皇帝の叔父として、魏の明帝曹叡を補佐すべく上表を重ねながら、
ついにそれが日の目を見ることはなかった曹植が真っ先に想起されるでしょう。

このように見てくると、楽府詩「怨歌行」が曹植の作であった蓋然性は高いと言えます。

これとは異なる説を示す文献として、
南朝宋の王僧虔「大明三年宴楽技録」(『楽府詩集』巻41「怨詩行」に引く『古今楽録』に引用)に、
「荀録所載古「為君」一篇、今不伝(荀録の載する所の古「為君」一篇、今は伝はらず)」とあり、
西晋の荀勗(?―288)の音楽目録(「荀氏録」)に、
「為君」という句に始まる、詠み人知らずの古楽府が記されていたこと、
それが、王僧虔「技録」が成った時(459)には既に伝承を断っていたことが知られます。

曹植作とされる「怨歌行」が東晋時代に歌われていたことは、
謝安(320―385)や孝武帝司馬曜(362―396)にまつわる逸話から明らかです。
そこから「大明三年宴楽技録」まで、それほど長い時間が経過しているわけでもありません。
「荀氏録」に古「為君」と記され、大明三年には既に伝わらなくなっていた古楽府は、
もしかしたら、曹植作「怨歌行」のもととなった本辞である可能性もあるように思います。

2020年7月29日

*矢田博士「境遇類似による希望と絶望―曹植における周公旦及び屈原の意味」(『早稲田大学大学院文学研究科紀要』別冊文学・芸術学編19、1993年)を参照。