再び浮き草の表象するもの

以前、こちらで言及した魏の何晏(189?―249)の詩は、
「転蓬」との対比で、庭園の池に身を寄せる「浮萍」を詠じていました。

また、何晏は別の詩(『藝文類聚』巻90)で、
同じ「浮萍」について、天網を逃れて翔ける鳥との対比でこう詠じています。

双鶴比翼遊  一対の鶴が翼を並べて遊び、
群飛戯太清  群れをなして飛んで天上に戯れる。
常恐失網羅  常々恐れているのは、天網に罹ってしまって、
憂禍一旦并  憂いや災禍がある日突然いっぺんに到来することだ。
豈若集五湖  それよりは、呉越の五つの湖に集い、
順流椄浮萍  流れに従って浮き草に連なる方がずっとよい。
逍遥放志意  ゆったりと浮遊しつつ思いを解き放とう。
何為怵惕驚  どうしてびくびくとおびえることがあるものか。

この詩も、前掲詩と同じく、
「浮萍」を、ある場所に身を託した存在として詠じています。

ところが、少し時代を下った西晋の傅玄(217―278)は、
たとえばその「明月篇」(『玉台新詠』巻2)の中でこう詠じています。

浮萍本無根  浮き草にはもともと根が無いのだから、
非水将何依  水のほかに、いったい何を頼みとすればよいのだ。

傅玄の作品は、浮き草の寄る辺なさに眼差しを注いでいる点で、
曹植の「浮萍篇」と一脈通じるものを感じさせます。

何晏と傅玄と、生きた時代は近接しています。
しかしながら、曹植が名誉回復し、
その作品が撰録されて内外に副蔵された景初年間中(237―239)、
何晏は五十歳前後、傅玄はまだ二十歳そこそこの若者で、
社会の中で重ねた経験も当然も異なっていました。

年齢や社会的経験による感受性の違いが、
「浮萍」の捉え方ひとつにも現れているということなのかもしれません。

あるいは、傅玄は曹植「浮萍篇」を見ていて、
その影響で、前掲「明月篇」の表現も生まれたのかもしれません。

2024年7月26日