再び用いられた言葉
こんばんは。
曹植はわりとよく、自身の言葉を他の作品で重ねて用います。
近作の言葉が、たまたま再び口をついて出てきたケースもあるでしょう。
他方、彼自身が意識的に再び用いたのではないかと思われるような事例もあります。
今読んでいる「責躬詩」(『文選』巻20)に、
文帝曹丕から曹植へ、諸侯の証が下されたことを詠じてこうあります。
冠我玄冕 わたしに黒い冠冕をかぶらせ、
要我朱紱 わたしに朱色の印綬の紐を佩びさせた。
そして、ここに見える「玄冕」と「朱紱」との対句が、
彼の「求自試表」(『文選』巻37)にも、次のとおり見えています。
是以上慙玄冕、俯愧朱紱。
是(ここ)を以て上は玄冕に慚ぢ、俯しては朱紱に愧づ。
「是を以て」とは、その前の記述、
すなわち、自分は三代にわたって魏王朝から手厚い恩寵を受けてきてはいるが、
何の徳も功績も挙げていない、という述懐を受けて言うものです。
「玄冕」は『周礼』夏官・弁師に、
「朱紱」は『礼記』玉藻に、それぞれ出典のある語ですが、
この二つの言葉を対句で用いる例は、漢魏六朝時代で、曹植作品以外には認められません。
更に、曹植作品の中でも、前掲の「責躬詩」と「求自試表」のみです。
また、両作品の成立時期には、かなりの隔たりがあります。
「求自試表」は明帝期の太和二年(228)、
一方「責躬詩」は、文帝期の黄初四年(223)に作られています。
すると、同じ言葉が思わず口をついて出てきたというわけではなさそうです。
「責躬詩」と「求自試表」における「玄冕」「朱紱」の共用は、
多分に意識的になされたものだったのではないだろうか、
そう推測するのは以上のような理由からです。
では、曹植は数年の時を経て、なぜ再びこの二語を持ち出したのでしょうか。
曹植は、かつて文帝曹丕から下された格別の配慮を、
明帝の時代に至るまで、深く心にとめていただろうと思います。
それは、最悪の事態から救い出してくれた兄への感謝でありながらも、
今、自身の能力を発揮する機会が与えられないことへの鬱屈をも含んでいたでしょう。
手厚い待遇を受けながらも、自分にはそれに見合うだけの徳も功もない、
それが耐え難いのだと「求自試表」は訴えています。
2021年11月11日